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日本史が面白くなる「地名」の秘密 (歴史新書)

日本史が面白くなる「地名」の秘密 (歴史新書)の写真

・日出ずる国の意訳として「日本」という漢字を与え、4,5世紀に日本に漢字が伝わったころ交流していた中国南北朝時代の南朝における「呉音」読みで、日本を、ニッポンとかニホンと呼ぶようになった、その後北朝の隋が589年に南朝を倒した後に、日=ジツと発音した(p15)

・1934年にNHKでは、正式な国号として使う場合には、ニッポン、その他の場合にはニホンでもよいとした(p17)

・インドとは、現在パキスタンの一部となっている、カラチなどインダス川下流の一部地域の呼称、スイスやオランダも、ハプスブルク家からの独立戦争のときに先陣を切った州の名前(p19)

・琉球とは中国での古くからの呼称、小琉球が台湾、大琉球が沖縄を指した。明の時代(1368-1644)には沖縄国王が明に朝貢した(p25)

・琉球の全盛は室町時代、明が日明貿易を遣明使に限定したが、琉球王国には人口に不相応な貿易枠を与えたので中継貿易で潤った、これをポルトガル船が行うことにより繁栄が終わった(p26)

・日清戦争にて得た遼東半島を三国干渉により放棄したが、日露戦争後に、先端部の関東州の権利を引き継いだ(p31)

・日本人は血縁的には単一でない、容貌も多彩、言葉はアルタイ系言語に近い文法構造と、南方のオストラネシア系の単語でできあがっている。言葉は縄文人の原日本語で、弥生人の影響は少ない(p37)

・716年には、高句麗人1700人余りを東国へ移して、埼玉県日高市高麗郡を設置、東京都狛江市、神奈川県大磯町高麗なども同系統、美濃国は715年に新羅人を、武蔵野国新羅郡(のちに新座)と移住させた(p42)

・大陸からの脅威が衰え文化の受容もひと段落すると、徴兵による国軍はコストにひきあわなくなり、国司に丸投げする受領制、民間委託である荘園制が発展した。それを支えたのが民間警備業者である武士であった(p44)

・徳川幕府は、主要都市を含む全国の4分の1ほどの領地は幕府代官が治め、残りは大名の領国として統治が任されている(p45)

・鈴木の名字は、植物のススキという、やまと言葉に由来するもので「鈴」「木」という漢字は当て字で意味はない(p50)

・奈良時代に出された勅令「好字二字令」で、国名や郡名は二字で、しかも印象の良い字に統一させたので、地名のもとの意味はほとんど不明(p50)

・醍醐天皇のころには、全国で合計582の郡が上げられている(p61)

・全国の県庁所在地において、城下町でなかったのは、札幌・千葉・横浜・新潟・長野・奈良・神戸・長崎・宮崎・那覇のみ(p64)

・江戸時代の日本は、大名領(藩)は全体の75%ほど、残りは幕府の直轄領(400万石)、旗本領、寺社領、公家領であった、経済力では25%以上(p72)

・幕府領では支配は緩やか、年貢の取立ても鷹揚で領民には幕府の直接支配がもっとも好まれた、預かり地はその次、大名領への組み入れは嫌がられた(p74)

・京都という名前が定着したのは明治維新後に京都府が設けられてから、地名の本来の呼び名は「平安京」(p76)

・室町時代の京は、烏丸・室町・今井川・上立売に囲まれた花の御所であった、中国風には太政大臣を「相国」、参議を「宰相」、中納言を「黄門」、近衛大将を「大樹」と呼んだ(p87)

・例えば、会津の松平容保は、朝廷との関係では「源」、正式名は、源肥後守容保で、松平は通称、松平容保という呼び方は、明治になってからの戸籍法での姓名の考え方で現代風に呼んでいる(p91)

・昭和18年までは現在の23区が東京市、三多摩地区などは東京府、政府の統制をより強力にするために、東京市を廃止して一部の機能は特別区に渡して残りは東京府に吸収させるかたちで東京都ができた(p110)

・平安時代に江戸重継という武士が11世紀に居館を構えた、江戸氏が本拠を構えたから江戸なのではなく、江戸を本拠としたので江戸氏と名乗った(p116)

・幕末期、最後の将軍である徳川慶喜は京都にあって、京都は名実共に首都であった。東京への正式遷都はない。明治3年に京都への還幸延期を発表、16年に即位の礼を京都で実施、大正4年、昭和3年も京都で即位礼が行われたが、平成2年は東京にて行われた(p131)

・明治11年に都区町村編制が実施され、江戸時代の「江戸市中」を15区に分けて、各郡(豊島、葛飾、荏原、足立)か独立させた。(p133)

・東京都のうち23区以外で島嶼部を除く地域を三多摩という、この地域が、北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡にわかれていたから(p135)

・明治政府は、旧幕府領については、府・県に再編成して直轄領としたが、版籍奉還によって大名領についても、大名を知藩事として任命して公式名称として「藩」が誕生した、廃藩置県では、藩をすべて県と改めて、政府が任命した県令に統治させた(p144)

・城が残されたかどうかも官軍賊軍と関係ない、姫路・松山・備中松山城は西日本における幕府方の中核であったが、現在もっとも保存状態の良い城である、長州藩の萩城は真っ先に壊された(p151)

・県庁について、都市名か郡名かの判断で郡名を避けたものの中には、熊本の飽田、愛媛の温泉のようにネーミングとして県名にふさわしくないもの(p154)

・明治体制では、市町村は自治体で、県庁は内務省の出先で、知事も主に官僚が任命され警察トップでもあった。横浜は東京と同じ武蔵国、兵庫は大阪と同じ摂津国だから、横浜や神戸に県庁をおけない、なので武蔵国の三多摩・横浜・川崎などを分離して小田原を県庁とした。神戸も、播磨・但馬がひとつの県になる中で県庁となり姫路が犠牲となった(p156)

・幕末の神奈川と兵庫の開港要求に対して、神奈川は宿場町であり外国人とのトラブルが予想されたので、南にあった横浜を開港地とした。県名に神奈川が使われたのは、幕府の出先が神奈川奉行所だったから(p156)

・神戸も横浜同様に、幕府の役所の名前が兵庫だったから県名に使われた(p157)

・県庁所在地でもっとも多いのは、元城下町、旧幕府領で県庁所在地になったのは、東京・横浜・新潟・大津・甲府・京都・大阪・奈良・神戸・長崎がある(p158)

・彦根は県庁になっていないが、普通は県庁所在地にしかない施設をもっている、気象台(この例外は、他には銚子・熊谷・下関)と、教育機関である「一中」、明治19年に文部省が各府県の高等尋常中学をひとつにだけとする命令をだしたのに由来する(p162)

・明治になり小学校をつくる必要もあり、300-500戸数で村とすることで、7.1万から1.5万に再編成(明治22)されて市町村となった、昭和22年の地方自治体法施行には1.05万に減少、新制中学新設のため、昭和の大合併により3472市町村(556,1935,981)、最後の平成合併は、1719市町村(789,746,184)となった(p175)