・神武天皇の頃は、葛城地方(大和盆地南西部)に限られていた天皇家の行動範囲が、徐々に北西に向かって広がり、宗神天皇(すじん:10代)に至って、三輪地方(桜井市付近)に本拠を移した。三輪地方は時として邪馬台国の有力候補と言われ、2世紀頃から大変栄えた纒向(まきむく)遺跡もあるとこと。その勢いをかって、崇神天皇は一気に、丹波・吉備・尾張・北陸、そして出雲を下して支配下に収めたというストーリーが、記紀には記されている(p36)
・安康天皇の皇子の一人だった雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子も共犯だとして殺してしまい、眉輪王が円大臣の家に逃げ込んだところ、火を放って円大臣、眉輪王らも殺してしまった。これでぬきんでいて実力者だった葛城氏の宗家は滅び、物部氏・大伴氏・蘇我氏らが群雄割拠する時代になる(p61)
・天皇が暗殺されたのは、安康天皇と崇峻天皇だけである、それも安康天皇の場合は家庭内のいざこざが原因なので、政治的なテロにあって殺されたのは、少なくとも明らかになっている限りでは、崇峻天皇だけである(p75)
・漢帝国の正統を引き継ぎ、華中の地に移ったことで温暖多湿な気候の影響を受けた南朝文明と、北方異民族の出身である隋唐のそれとは大きな違いがある。唐風に対する「和風」の中身が、実は南朝文化を継承維持したものは意外に多い、合わせ襟の「呉服」は秦漢時代の服装で、隋唐以降の「詰め襟」と対抗するもの、柔らかな呉音(例えば、日を「にち」と読む)と固い漢音(同じく「じつ」と読む)もそうである、中国語は北朝の勝利で「アルタイ語化」したと言われるほど変化した(p81)
・太宰府は古代九州の中心で、博多は新しい九州の玄関口と思っている人が多いが、本当は、博多の方が弥生時代の奴国の時からの歴史をもち、太宰府は天智天皇が創った新都市である(p86)
・嵯峨天皇には49名の子がいたと言われ、多くの皇子に源姓を与えて臣籍降下させられた、これが源氏の始まりで、やがて桓武天皇の孫たちに「平姓」を与えて、やはり臣籍降下させらた。これを機に、様々な系列の源氏や兵士が誕生した、特に栄えたのは、桓武平氏・清和源氏・村上源氏である。また、平城天皇の子孫たちは「在原姓」を名乗った、こうしてくると他の貴族たちは中枢のポストから押し出された(p112)
・押し出された人たちは、摂関家の歌人、武士、神社の社家として残った、幾何人の秦氏は「惟宗」と改姓し、忠久は近衛家の家司(けし)となった。源頼朝の乳母だった比企氏の娘だったことから、頼朝の元に移り薩摩などの守護となったのが島津氏の始まり、松尾大社の社家には「川勝氏」稲荷大社には「羽倉氏」がある(p113)
・宇治平等院を創建した藤原頼道は、父である道長と違ってそれほど多くの子に恵まれなかったので、皇室への影響力はたちまちのうちに減衰した、摂関だから皇室を支配できたのではなく、外戚としての力を発揮して、女性たちを通じて初めてコントロールできていた(p121)
・鳥羽法皇の死期が近いというので、なんとか関係を修復したいと出向いた崇徳上皇が面会も許されず、この挑発に乗った崇徳上皇側の藤原頼長や源為義が暴発して排除されたのが「保元の乱」でこの時に、死刑が300年ぶりにつっ活した(p133)
・壇ノ浦の戦いで源氏が兵士に勝った頃、藤原氏にはいわゆる「五摂家」が成立した、近衛家から「鷹司家」、九条家から「二条家」「一条家」が誕生して五摂家となった(p138)
・承久の乱の後に、後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は、土佐ついで阿波に流され、三人の上皇はついに帰京できないまま崩じられた(p141)
・後嵯峨条項が26年の院政の後に崩御されたとき、院政を行う治天の君を誰にするか明確に残さなかった、中宮で後深草、亀山両帝の母であった、大宮院は遺志が亀山天皇にあっ多ことを明言し、遺産のほとんども亀山天皇に引き継がれることになって、後深草院は著しく冷遇されたが、これが両統迭の導火線になった(p143)
・後醍醐天皇とその側近は、貴族同士や寺社の仲裁などをしたり、京都府庁としての地方政治をしている分にはそこそこ水準の高い仕事をしていたが、幕府に代わる中央政府として機能すふほど官僚組織を持たなかったのが致命的であった、その意味では現代の政治主導による混乱に似ている(p150)
・筆者としては、信長はまず息子の信忠を将軍にして、自分は一旦太政大臣になり、天皇には譲位していただき、その上で、上皇と新天皇に安土に行幸していただくことようなことだったお考えている、信長と秀吉が考えていた日本は、まさに世界産先進国家であった。そのことは、徳川家の支配が終わった後の慶応四年に、早くも「あえて幕府を作らなかった尊皇の功臣:である豊臣秀吉の名誉回復が行われ、豊国神社再興を決めたことでわかる、この時、大久保利通は浪速(大阪)への遷都を提案し、明治天皇は関東親征を口実に大阪城にうつられたのが、そこでの決定であった(p168)
・徳川家康は実力で天下をとり、大名たちは力でねじ伏されて従った、二代目の秀忠はともかく、家光から後になると天下の主であるのは本人の実力とは誰も思わない。そこで老中たちが考えたのが、格調高い儀礼の導入である、室町時代の名門を、旗本ですが官位が高い「高家」として取り立てて、彼らを儀典係として大名たちに難しい儀礼を押し付けてがんじがらめにしよということにした。吉良家は足利家の分家でも格が高く、今川家の本家筋にあたり、三河第一の名門であったので、徳川家の主人筋といっても間違いない、吉良上野介(義央)は、あの今川氏真の玄孫であった(p177)
・光格天皇は1817年に譲位されて上皇になったが、これが平成の陛下の退位の最も新しい先例ということになる(p186)