・信長の父の信秀の脳の中には、中国の兵法と故事の常識・論理がたくさん詰まっていた。これが、機知に優れ、戦えば必ず勝ち、前進すれば必ず敵を急追した、信秀脳の正体(p24)
・孫子で強調されているのは、「戦わずして勝つのが最善」ということ、兵糧攻め、水攻め、がその策である。さらに地形を知ることの重要性も繰り返し説かれている(p33)
・信長公記に書かれているのは、他国衆が退出した後に、朝倉義景の頭蓋骨を出したが、その時にいたのは信長の親衛隊の馬廻衆のみ(p44)
・桶狭間の戦いの作戦は、味方にも秘密にしなければ勝てなかった(p60)
・今川軍は、幸先よく、鷲津砦・丸根砦を攻め落としたが、信長の狙った通り敵は分断されて、しかも先陣は疲弊して、後陣には驕った状況が生まれていた(p66)
・正攻法で攻めると見せかけて意表を衝く(鳴海城に攻めるとみせかけて桶狭間へ向かう)、まだ戦闘態勢を整えていない本隊を攻める、という正面奇襲戦法であった(p71)
・今川義元が桶狭間に駐留させた理由として、1)夏の日差しを避けられる日蔭のある場所、2)高根山周辺の高地から戦況が見える、ので(p81)
・桶狭間からの出口の封鎖が不十分だったので、信長軍の突撃に対して、前陣がひるんで後退して全軍が崩れてしまった(p81)
・中国では始皇帝による天下統一がされる前(紀元前221)までに、様々な学派が生まれた。孔子・孟子・荀子らの儒家、老子・荘子らの道家、墨子らの墨家、韓非らの法家、孫武・呉記らは兵家と言われ、諸子百家のひとつに位置づけられる(p89)
・韓非子の思想の基本として、法治が国の根幹であり、信賞必罰の必要性も強調。本人を罰するだけでなく、罪を犯そうとする者をなくすため(p93)
・一揆は、村単位が構成員の信仰心や信念で行動するため、「戦わずに勝つ」という仕組みがきかない、したがって敵対した場合には殲滅しかない(p105)
・戦国武将の誰しもが、韓非子的な思想と、儒家的思想を併せ持っていて、場面に応じてどちらかが強く表れていた(p113)
・筆者の造語である「中日本」とは、将軍が直接統治を行った京都周辺の五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)に、信長が領国とした、尾張・美濃・近江・伊勢・越前・若狭、を加えた範囲(p116)
・尾張統一期(26歳、永禄2:1559)、上洛戦期(35歳、永禄11:1568)、中日本統一期(40歳、天正元:1573)、天下統一期(49歳、天正10:1582)に分けられる(p118)
・組んだ叔父の信光は、守護代信友を切腹させて清須城を信長へ、自分は那古屋城へ移った。信光が半年後に家臣に殺されて、信長は下四郡をすべて手に入れた。(p124)
・信長が、伊勢・若狭・越前を攻めた理由として、伊勢湾海運の港町津島を領有して、港町の重要性を知っていたから。港町からもたらされる交易品や貨幣の価値に目覚めていた。伊勢と、日本海側の越前三国湊、若狭小浜・敦賀を抑えることで、琵琶湖経由して伊勢と日本海を結ぶ海運を支配したかった(p132)
・信長は義昭追放の翌年に、朝廷から従五位下に叙任され、昇殿をゆるされるようになった。信長は朝廷の権威を活用するように方針転換した(p137)
・強敵武田氏と戦う場合、長期化すると、三島暦を用いる東国での戦いに混乱が生じる。命令を書いた書状にし「正月」と書いた場合、一か月の違いが生じるので、暦の問題を片付けたかった(p141)
・2014年10月、熊本県の旧家から、永禄9(1566)に信長が義昭に供奉して上洛する計画であったことを示す書状が見つかり、その2年後にあらためて光秀が義昭の仲を取り持つ必要性がないことが証明された(p164)
・光秀が信長を恨んで殺したとする怨恨説等は、「惟任退治記」が基になっている(p167)
・一族滅亡の危機を冒してでも謀反を起こすのは、謀反を起こさずにそのまま放置していると一族が間違いなくもっと悲惨な事態に追い込まれるという危機感がなければならない(p183)
・信長は、家督を譲った信忠には、美濃・尾張・甲斐・信濃・上野・飛騨、次男信雄には、伊勢・伊賀、三男信孝には四国を与えて、安土・京都を中心に織田家直轄領で固めようとしていた(p186)
・当時の日本には、大海を渡って軍勢を輸送できる大型の軍船も、それを操れる航海士も存在していなかった、調達を諦めた秀吉軍の唐入りは、朝鮮半島を渡って陸路を使うしかなかった(p194)
・秀吉の唐入りの真の目的は、将来の危険人物の国外放逐であった、その候補としては九州の地名を受領名とする、光秀、秀吉あたりだろう(p196)
・唐入りによる日本軍(兵士および輸送員)15万人のうち、5万人が死亡した。大部分は、労苦・飢饉・寒気・疫病によるもので、戦闘によるものはわずか(p203)
・百年近く続いている戦国の世を終わらせて平和な時代を築きたいという思いで信長をささえてきた武将たちが、天下統一は終わりではなく、その先に見知らぬ異国での戦いが待っていると知った時の衝撃はどうであろうか。この流れを止めたかったのが光秀の謀反の動機であろう(p217、220)
・本能寺の変は、信長による家康討ちだったとすると、光秀の謀反成功の条件がすべて整う(p252)
・本能寺の変で唯一生き残った信長の小姓である黒人の彌助(やすけ)は、京都のイエズス会に引き渡された。密室でなされた出来事がフロイスに伝えられた可能性あり(p256)
・信長の油断とされる「信長が無警戒で本能寺にいた」ように見えたのは、無警戒だったわけではなく、「少人数でそこにいる」ことが信長の企てにとって必須条件であった(p272)
・家康討ちを初めに企画して持ちかけたのが、光秀であったら、信長は光秀を信じ込み、まったく疑うことなく家康討ちの実行に没頭しただろう(p277)