・光秀と信長の確執が書かれているのは、秀吉が宣伝した「惟任退治記」である、秀吉がそれを真実として流したことも、世に知られていない(p23)
・光秀が有名な歌を読んだのは、5月28日とされるが(本能寺の変と2日違い)、当日の天気は快晴である(p29)
・秀吉は、信長の忠実な家臣でもなく信長を慕っていたわけでもない(p35)
・謀反に踏み切る必要条件は、1)謀反を起こさずにいれば一族が滅亡する、2)謀反を成功させる目算がたつこと(p52)
・足軽は、応仁の乱を契機として活躍した新しい形態の戦闘集団で、非武士身分によって構成される非正規部隊、いわゆる傭兵であった(p65)
・幕府の足軽衆に取り立てられ、まっさきに義昭から離れた光秀は、幕府に対して強い忠誠心や義理は無かっただろう(p76)
・光秀と長宗我部の畿内、四国同盟崩壊というのは明智一族には重大な問題であった(p125)
・信長を支えて天下統一すれば百年続いた戦国が終わり平和な世の中になると信じていたのに、異国の地で戦うことになる、この流れを止めたかった(p139)
・信長は当日、本能寺で何をしようとしていたのか、信長が家康を本能寺に呼び出して、光秀に討たせようとしたと考えるとつじつまが合う(p151)
・光秀・筒井順慶の軍勢を徳川領へ侵攻させる命令を発していた、これが家康と順慶が呼び出された理由(p153)
・黒人であった「やすけ」のみが本能寺から脱出して生き残ることができた唯一の信長の小姓であった(p188)
・信長の家康討ちの計画を乗っ取れば間違いなく信長は討てる、信忠討ちも政権維持も家康が味方につくのでうまくいくと考えた(p199)
・西陣を様子見にして、甲斐・信濃の織田領で策動したということ自体が、光秀に味方していたことをはっきりと証明している、家康が東陣に深入りせず初めの計画通りに6月9日に西陣を進めていれば山崎の合戦は大きく変わっていただろう(p241,244)
・斉藤利三が口を割らなかったことを知って家康や安堵しただろう、この恩義の念が、彼の娘の福(春日の局)を孫の家光の乳母(教育係)に採用することに繋がったのだろう(p248)
・光秀の謀反に加担した家康、謀反計画に係わりながら光秀を裏切った藤孝、謀反を知りながら信長に通報せずに乗っ取った秀吉、三人が密約を結んだ可能性がある。(p287)
・当時の名前の付け方は、父祖の名前からの一字に、偏き、といって説きの権力者から一字をもらう組み合わせが行われていた、家光の元服が4年も延期されたのは、当時の権力者である「頼」をつける必要があったから(p299)