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日本史真髄

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本書は、日本人の歴史認識を歪めている最大の原因は、日本人独特の宗教観を考慮せずに歴史を解釈する「宗教の欠落」にあると論じた一冊である。キリスト教を無視して西洋史を理解できないのと同様に、日本史も日本人の宗教意識を抜きにしては正しく読み解けないと著者は主張する(p3)。

著者によれば、日本人の行動や社会制度を形づくってきた独特の信仰は、第一に「穢れ忌避信仰」、第二に「怨霊信仰」、第三に「言霊信仰」の三つである(p8)。

「汚れ」は客観的に存在を証明できる不浄であるのに対し、「穢れ」は、科学的には証明できなくても、特定の信仰や文化の中で存在すると考えられている観念上の不浄である(p18~20)。この感覚は血統や国籍だけで決まるものではない。日本文化の中で日本語を母語として育った人は、日本民族のDNAや日本国籍を持たなくても、穢れの観念に影響される可能性が高い。人は言葉を用いて思考するため、日本語と日本文化が宗教意識の形成に大きな役割を果たすからである(p19)。

古墳の周囲に水をたたえた堀が巡らされていることも、穢れの観念の表れとされる。水には穢れを清める力があると考えられ、堀は死者の世界と生者の世界を隔てる結界として機能したという(p33)。

日本社会の差別にも、穢れ忌避信仰が深く関わってきた。米を作る人は尊ばれる一方、動物を解体する人は穢れているとされ、職業や人間を穢れの有無によって区別する日本独特の差別が生まれた。この構造は現代にも残っていると著者は指摘する(p55)。その背景として、稲作文化を持つ弥生人が縄文人を征服し、狩猟や動物解体を伴う縄文文化を蔑視した可能性を挙げる。天皇家の儀礼に、動物を殺して神に捧げる儀式が見られないことも、その傍証とされる(p58)。

第二の柱である怨霊信仰は、無念の死を遂げた者の霊が災いをもたらすという考え方である。日本では、敵を完全に排除するよりも、その霊を慰め、共存することが重視された。古来、日本の三大建築物とされた出雲大社・東大寺大仏殿・京都御所は、それぞれ和の精神、仏教、天皇を象徴する。著者は、その順序から、日本人が最も重視してきたものは怨霊を鎮める「和」、次に仏教、そして天皇であったと解釈する(p107)。

藤原氏による摂関政治も、日本独特の権力構造を表している。摂政は幼少または病弱な天皇の代理人だが、藤原氏は成人した天皇の権限も代行する「関白」という地位を作った(p122)。中央政府を藤原一族が占めたため、同じ藤原姓の家々を屋敷の所在地などで区別する必要が生じ、それが苗字として定着していった(p134)。

一方、武士の台頭を著者は「縄文人の逆襲」と捉える。稲作中心の弥生文化と、狩猟・武力を重視する縄文文化という二つの文化が日本には共存しており、幕府は後者の復権として成立したという(p143)。ただし、武士も怨霊信仰と無縁ではなかった。『平家物語』は、滅亡した平家一門の無念を多くの人に知らせ、悲哀への共感によって霊を慰める鎮魂の物語だった。琵琶による弾き語りにすることで、文字を読めない人にも広く伝わり、結果として識字率向上にも寄与したと説明される(p145)。

第三の言霊信仰とは、言葉には現実を動かす力があるとする日本古来の思想である(p154)。言霊の世界では、名前は人格そのものと考えられ、本名を知られることは相手に支配されることに等しかった。そのため、本当の名前はみだりに明かさず、特に女性の名は家族以外の男性には知らせない習慣があった(p158)。

江戸時代の武士が通称と諱、すなわち本名を使い分けたのも、この考え方による。遠山の金さんの場合、「遠山」が姓、「金四郎」が通称、「景元」が諱であり、正式名は遠山金四郎景元となる。しかし日常では金四郎、役所ではお奉行様、江戸城では官位によって呼ばれ、生前に「景元」と呼べるのは両親や将軍などに限られた(p161~162)。

言霊信仰は、日本人の危機管理にも影響した。起きてほしくないことは、考えたり口にしたりするだけでも現実になりかねないと無意識に感じるため、最悪の事態を想定し、事前に対策することを避けやすい。著者は、日本人が危機管理を苦手とする理由をここに求める(p178)。

幕末の対応にも、この傾向が表れている。オランダ国王はペリー来航の9年前、1844年に開国を勧告したが、幕府は「鎖国は祖法である」として拒否した(p197)。また、最初の日米条約が「日米通商条約」ではなく「日米和親条約」となったのは、幕府が「通商」という言葉を使うことを拒んだからである。朱子学では商業を低く見るため、「商品」や「通商」という言葉自体が幕府にとって使いにくいものだった(p225)。

朱子学は、日本の政治や東アジア関係を理解するもう一つの重要な鍵である。中国や韓国が過去の問題にこだわり、謝罪を繰り返し求める背景にも、個人を先祖から切り離して考えにくく、祖先の罪を子孫も背負うとする朱子学的発想があると著者は論じる(p198)。

朱子学では、徳によって治める君主を「王者」、武力や陰謀で天下を取った者を「覇者」とする。徳川将軍家は覇者であったが、日本には神の子孫とされる天皇家が存在したため、将軍は天皇に取って代わることができなかった(p215)。明治維新は、日本古来の王政復古であると同時に、朱子学的には覇者である徳川氏の支配から、王者である天皇の統治への転換でもあった(p229)。

武家政権の成立について、源頼朝が征夷大将軍を望んだのは、この役職に遠征先での徴兵権と徴税権が与えられていたからだと説明される。頼朝が征夷大将軍に任命されたのは1192年だが、実質的には1185年に日本国総追捕使となり、警察権と刑罰権を獲得した時点で、朝廷から武家へ政治が委任されたと考えられる。著者はこれを、後世の大政奉還とは反対方向の「大政委任」と位置づける(p264~265)。

本書が一貫して示すのは、日本史を理解するには、制度や事件の表面だけでなく、日本人の無意識を支配してきた宗教観を読み解く必要があるということである。穢れを遠ざけ、怨霊を慰め、言葉の力を恐れる。この三つの信仰が、差別、政治制度、文学、呼称、外交、危機管理に至るまで、日本史の底流を形づくってきたのである。