・白村江の戦いにおいて、日本側は1000艘の船を用いて、万以上の兵士を動員した、国力が相当あったはず。日清戦争において先制攻撃で派遣した部隊は、5000人(p16)
・日本が高度な技術を持てた理由の一つに、日本が細長い島国であり海上交易が盛んであった、さらに、日本人が生真面目であること(p21)
・雄略天皇時代に整備されたものとして、斎蔵は、天皇の祭具を保管した蔵、内臓は、官物を保管した蔵、大蔵は、全国からの貢物(税)を収めた蔵がある。蘇我氏は、税を管理するポストについて大出世した(p23)
・大化の改新の後に行った、班田収授法は、思い切った農地改革であった。田畑の私有禁止して、全て天皇の領地とし、貸し与えることで、民は租(収穫高の3%)庸調(朝廷の主な財源、官僚への給与)の税を払った、役職は世襲制を廃止、戸籍整備(p25)
・国分寺、国分尼寺をつくり、東大寺の大仏の造立を決定した、その財源として考えられたのが、墾田永年私財法である(p32)
・中央政権は、東北を辺境・異境として扱い、差別することがあった。東北の人達が反旗を翻すことがあった、774年から始まった「38年戦争」である。(p34)
・712年には、庸・調を銭で納める基準を定めた、銭五文=布1常(一丈三尺)、貨幣制度が根付き出したが、760年に「万年通宝」を出して(同じ材質ながら、10倍の価値があるとした)混乱した、958年に「乾元大宝」を最後に銭の鋳造をやめて、米・布を通貨代りとする経済に逆戻り、平安末期の宋銭流入まで続く(p44、45)
・中央政府から派遣される国司には赴任期間(4-6年)あったので、実際の徴税業務は、その地域から選出された「郡司」が行った。彼等が力をつけていき、豪族となっていった(p48)
・平清盛の父(忠盛)の時代は、越前敦賀港は、博多についで重要な日宋貿易の拠点であった(p50)
・頼朝は、清盛とは異なり、当時の国会体制(天皇中心の朝廷が政治を司る)を壊して、武士による新しい社会経済体制をくろうとした(p57)
・頼朝は、守護地頭を置く権利、全国の武士を指揮・処罰する権利、徴税権、軍事権、警察権を獲得していった(p59)
・義経は、朝廷から勝手に官位をうけてしまい、武士団による新政権という構想が根本から崩れてしまうことになるので、殺害せざるを得なかった(p60)
・鎌倉幕府は、関東を中心とした数カ国~十数か国を統治していたのみ、日本全体は各地域の豪族が統治していた(p61)
・京都で敗れた足利尊氏を全国の武家が指示した理由として、九州に落ち延びる直前に、「元弘没収地返付令」=建武新政府に没収された領地を以前の持ち主に返す、を出したので(p69)
・遣唐使派遣時代、1隻用意するのに、1万数千貫かかった、1貫=足軽年1年分=500万円とすると、500-600億円となる(p76)
・ポルトガルは、1557年に海賊を討伐した報償として、明からマカオを割譲されている(p79)
・フランシスコザビエルは、ポルトガル王から1000クルサド(50人分の生活費)の援助を受けていた、日本滞在の2年間各地で布教できたのはこのおかげ(p85)
・ポルトガル貿易の取引額は、1570-1630年代までで、290-440万クルサドであった。29~44万石の貿易額、これは100万石の大名の一年分の年貢収入(年貢率4割)に匹敵しうる(p89)
・津島は、尾張と伊勢を結ぶ地点にあり、ちょうど西日本と東日本の中間に位置していた(p91)
・織田信秀は、伊勢神宮の外宮の移築資金として700貫目、朝廷へ4000貫目を寄付している、4000貫目とは、米にすれば1万6000石にあたり、4万石の大名の1年分の年貢収入。上杉謙信は黄金30枚=1200貫目である(p93)
・信長は、足利義昭を擁して京都を押さえた時、将軍からの畿内6か国の管領推挙を断り、その代りに「堺」「大津」「草津」の港を所望した、堺は日本最大の国際港、大津は琵琶湖の最南にあった(p94)
・上杉謙信は、柏崎と直江津という2つの港からの関税収入だけで、年間4万貫を得ていた、これは30万石の大名の収入に匹敵する、領地に加えて30万石持っていたのと同じ(p94)
・室町時代から戦国時代前半にかけて、日本の資産の多くは寺社が所有していた、管領の細川高国は「撰銭令」を8つのお金持ちに発布した、大山崎、堺の自治都市、山門使節・青蓮院・比叡山三塔(比叡山関連)、興福寺、細川高国である(p109)
・信長は1590年に、通貨に対する発令を出した、内容としては、米を通貨としてはいけない、高額取引・輸入品取引には金銀を使う、金銀が無い場合には良質の銅銭を使用する、金10両=銅銭15貫目、銀10両=銅銭2貫目(p117)
・太閤検地の画期的な点は、田畑の所有者、耕作者(=納税する者)を特定した(p124)
・江戸幕府は享保の改革を行うが、このテーマの一つが「大阪経済圏からの自立」であった、江戸は日本の首都であったが、商工業は大阪経済圏に依存していた、醤油・油の76%、繰綿(精製していていない綿)は100%、木綿:34%、酒:22%(p133)
・江戸幕府が、鎌倉・室町・豊臣政権と違っていたのは、経済基盤の強さ、400万石が直轄領、親藩を含めると800万石で25%に相当して、前3政権と比べて圧倒的に大きい、鉱山も直轄地にして、貨幣鋳造権も独占(p134)
・江戸時代の全国収穫量は3222万石となっていたが、明治時代に地租改正のために計測すると、4684万石であった、隠し田が相当あった(p139)
・廃藩置県時の燔債(277藩)の総計は、7813万円(両)、内国債:7413、外国債:400万両、新政府は、内国債の3487万両(47%)と、外国債全部の合計3887万円を引き受けた(p145)
・開国自体、幕府には不利に働いた。開国により、諸藩も貿易で潤い、最新兵器を入手できるようになった(p150)
・幕府とは、軍司令部のような意味であったが、武家が実質的な権力を持ったために、軍機関が政府の役割まで果たすようになった(p152)
・薩長土肥の4藩主連名で、1869年に版籍奉還を朝廷に提出した、藩が持っていた領地を国家(朝廷)に返還するというもの、旧藩主たちは「知藩事」に任命されたが、世襲制とはされなかった。国家に返納させられた土地は農民に無償で払い下げられた、農民は土地の所有権を無料で手に入れた(p157、159)
・地租改正のポイントは、農民に土地の所有権を無料で与えたことと、商業地にも地租をかけたこと(p160)
・地租は土地代の3%を現金(米でなく)で納めるという制度であった、この価格は収穫米の平均代価の34%程度で、江戸時代の年貢と同等の負担率であった、これは一定であったので、農民が収穫を増やせば増えた分は自分の取り分となった(p162)
・清朝の中央政府は外国人に税を徴収されるという屈辱的な行為を認めていた、清の地方官に任せていたが、相当な額の中抜きをされてしまう恐れがあったので(p174)
・日露戦争前には1000万ポンドの公債を消化させることが大変であったが、最終的には8200万ポンド発行された(p196)
・世界恐慌後に、日本は円安状態になっていた、1929年に100円=49ドルが、1933年には100円=25.23ドルとなっていた(p201)
・日本の綿輸出は、昭和8(1933)にはイギリスを抜いた、インド市場でも同様だったので、輸入規制(ブロック経済化)を行った。(203)
・インド市場から締め出された日本は、そのはけ口を満州に求めることになった(p205)
・東三省交通委員会は、運賃を安くしたり、南満州鉄道を利用する業者に高い税金をかけることで、収益シェアをたちまち奪った、南満州鉄道に閉口した路線をつくらない、という覚書を無視した(p213)
・東京には、深川・浅草・芝・小石川・下谷・京橋・麻布・牛込・本郷・四谷・神田・赤坂などに貧民街があった(p221)
・フォードは大正14年、GMは昭和2年に日本上陸をした、駆逐された日本企業を見た陸軍は、危機感を持ち、昭和11年に自動車製造業法をつくり、国の許可した事業者しか自動車を製造販売してはならない、という法律を作った。許可されたのは、トヨタと日産と、ディーゼル自動車(現いすず)のみ(p249)
・以前から建設が少しずつ進められていたことが、新幹線建設を早めた要因である(p257)