・「倭」とは、背が曲がって、たけの低い、小人、という意味。魏書の「倭人伝」が伝える日本は、1)帯方(朝鮮中央部)の東南で大きい海の中にある、2)山や島で国や村を形成、3)もとは百余国あった、4)交易しているのは、30国(p10)
・日本には、高天原出身の同じ一族の、1)姉アマテラス(天孫族)、2)弟スサノオ(出雲族)の二集団があり、国の支配権をめぐって対立していた。スサノオの子供が、オオクニヌシで、因幡の白うさぎの説話に出てくる神様で、父と違って性格が穏やか(p21)
・天孫族から日本国の支配権を譲れと、言われて、オオクニヌシは、「譲るが、八雲たつ出雲の国だけは、わが神領として、青い垣根のヤマで囲い、神霊の宿る玉を置いて自分で守る」とした(p21)
・倭人国の、倭の意味を知って、これを嫌い、同じ倭を「和」と改め、大同団結という意味で、これに「大」をつけて「大和」として、ヤマトと呼び変えていった(p22)
・初めて銅が日本で産出された記録は、8世紀初頭(708)で、それを喜んだ大和朝廷が、年号を和銅と改めている。国内で銀貨が鋳造されたのは、八世紀初め。金の発見は八世紀半ば(p24)
・用明天皇(聖徳太子の父)の病気平癒を祈って建立したのが、法隆寺と薬師如来像である、完成したのは、二代後の推古天皇の御代(p25)
・冠位十二階は、これまでの家柄によって身分が決まる、氏姓制度に代わって、個人の力量・才能によって官人の地位や序列を決めるもので、無名の者の昇進の道を開いた(p26)
・三国時代(百済、高句麗、新羅)の末期、唐がそれまでの融和的な対外戦略を転換して、新羅と組んで百済を攻撃して滅亡させた。滅亡後、百済復興軍は、唐・新羅連合軍に臨んだ、白村江の水軍戦(633)で完膚なきまでに敗れた(p30)
・続日本紀によると、奥州小田郡において749年に、金が発見された。献上した砂金は900両、当時の一両(重さの単位)は、14グラムなので、合計12.6キログラム、6000万円程度の価値(p33)
・当時の聖武天皇は、黄金の発見に喜び、元号を、天平から「天平感宝」に改元したほど、同年七月には皇太子への譲位がされている(p34)
・五色のカネ、黄金(クガネ、コガネ)=金、シロガネ=銀、アカガネ=銅、クロガネ=鉄、アオガネ=鉛の、最高位にあるのが黄金(p34)
・奈良東大寺の大仏の本体の素材である銅は、山口県長登銅山から調達できる見通しあったが、外観を荘厳にするための装飾用の金が欲しかった。大仏の正式名称は、「廬舎那仏=あまねく照らす=天照大神」であったから。金メッキに必要な金の量は、一説には440キロと言われている、国産で150キロを賄った(p35,36)
・地球が丸いと初めて知ったのは、紀元前3世紀のエジプト人、エラトステネスである。それが千年以上に渡って陽の目を見なかったのは、地球を平面だとして、天空が回っていると信じて疑わなかった、キリスト教(カトリック)の弾圧による(p46)
・太陰暦は生活と密着していて良いが、月の形の変化が太陽より若干早いために、閏月を導入する必要がある。この修正方法を隋や唐に行って学ぶ必要があったが、それが遣唐使の廃止でできなくなった。その後、じわりと狂いが生じてきた(p48)
・同じ遣唐使(延暦23年、804)の一員である、最澄は「東大コースを順調に走った秀才、朝廷ご指名の短期留学生」、空海は「私大中退の独学コースを余儀なくされた天才=長期私費留学生」であったが、帰国後に立場が逆転した(p50)
・空海は、渡航前から現地語をマスターしていて(最澄は通訳付き)当時の最先端の仏教であった密教に、多くの経典・法具・曼荼羅をもらってきた。二年間で密教の最高の資格を取得して、唐にいる必要がなくて帰国した(p51)
・もともと武士とは、武力をもって朝廷などの「公に奉仕する」いわば近衛兵の意味をする「もののふ」であった。これは天皇から臣籍に下った皇子たちに遡り、2つあった。源氏は、嵯峨源氏(52代嵯峨天皇の子孫)、清和源氏(56代清和天皇)、村上源氏(62代村上天皇)など、21の流派がある。平家は、50代桓武天皇から発した4皇子にその源流がある。(p56)
・一段低く、貴族らの家財、警護にあずかる者=用心棒が、主人の近くにはべって「かしこまってさぶろう=かしこまって侍しております」なので、この言葉が変化して「さぶらい=さむらい(侍)」となった(p56)
・この侍(中堅幹部)の下に、どんな紛争でも請負うことを生業とする「つわもの」=派遣さむらい、がいた。「もののふ」「さむらい」「つわもの」の三重構造であった(p56)
・西洋における騎士の厳しい条件として、1)キリスト教の規範意識を持つ、2)独自の叙任式を経たもの限定、3)女性をあがめ守る(p57)
・平家の子孫たちが朝廷から戴いた官職は、正三位・従三位、源氏の棟梁・義家の四位より高いので気位が高い。なので平家の勢力が全国に広がるのも早かった。坂東平氏と呼ばれた東国に根を張った平氏は、義家によって源氏に吸収されてしまった。伊豆に根を張った平家の子孫は「北条氏」を起こし、その娘を義家の四代後の源頼朝に嫁がせて、系統がわからなくなった(p58)
・藤原清衡は、11世紀から12世紀にかけ、拠点を平泉に移して、東北周辺で採取される金の上に築いた「奥州藤原政権」を確立した、そうして、1)京・朝廷(平氏)、2)関東源氏、3)奥州藤原政権、になった(p59)
・平清盛が、専用の輸入用の湊(港)をとして造ったのが、神戸港、その余りある銭で造ったのが今の厳島神社である(p61)
・頼朝と義経の武将としての決定的な差、一の谷の合戦で不意打ちした、勝手に朝廷から官位をもらう、平家の嫁を娶るなど、「もののふ」のすることでなく、卑しい「つわもの」のすることに対して、確執があった(p68)
・名実ともに武家の頂点に立った頼朝は、東北の金も掌握して、1190年11月に精鋭1000騎を従えて京に上り、後白河法皇に謁見して征夷大将軍を望んだが、朝廷の常設ポストの「右近衛大将、権納言」を任命した。征夷大将軍は、大和朝廷に従わない東北地方の蝦夷追討のために坂上田村麻呂に与えた臨時の官職であったこと、東北に口を出させたくなかったのが原因(p71)
・1192年に後白河法皇が死去すると、頼朝の征夷大将軍が発令されたが、この職も2年で辞任。無冠のままで朝廷とは別に、鎌倉を中心に東国経営を始めたのが鎌倉幕府であった(p72)
・1203年に頼家が床につく病気となり、その嫡男に、関東28か国の地頭職と惣守護職、弟に関西38か国の地頭職を譲ることが決まったが、この分割統治に不満な嫡男が、その取り決めをした北条氏に反旗を翻してここに源氏と北条氏(当時、時政)の争いが発展した(p73)
・北条氏は、頼家の弟で、関西38か国の地頭職とした、千幡(のちの実朝)を第三将軍として、選んで時政は補佐する形で、執権となった(p74)
・1219年1月、鶴岡八万宮で右大臣就任拝賀の式典を終えた実朝は、頼家の遺児=同宮別当の公暁に襲われて殺害された。これ以降は、朝廷側に摂関家からの将軍派遣を要請した(p74)
・尾張は毎年のように洪水になり米作は適さず、桑を植えて養蚕で生きた地域であった。蚕で作る絹織物は女性労働なので、男は通年兵隊として働かさて、田植えをする必要がなかった。なのでもともと兵農分離であった(p96)
・終わりの主力製品は綿織物、その売りさばける場所である京にいくことは、尾張の経済事情からみれば当たり前であった。これが、北陸の朝倉、広島の毛利、静岡の今川との相違点(p97)
・秀吉は山陽道を西に進軍していたが、日本海岸に進んで松江城を攻略したこの理由はその途中にある銀山を手中にするため。銀山からは銀のみを主君に献上して、金はかなりの部分を隠匿していた、これが「中国大返し」に活用された(p101)
・茶々が、懐妊する一年ほど前に、秀吉は気心の知れた、後陽成天皇に泣きついて、その末弟・胡佐丸君(9歳)を養子にもらう約束があった、発表しなかったのは天皇が喪中だったから。もし胡佐丸君が豊臣家の跡継ぎになったら、側室は引き下がり、秀吉が死んだら尼にならねばならなかった(p104)
・徳川家康は、1)天下一の大坂城、2)そこに籠る多数の浪人とキリシタン、があるかぎり決して豊臣方と戦わなかった。ところが1600年に、オランダ船でウィリアム・アダムズ(三浦按針)がやってきて、キリシタンと敵対するプロテスタント諸国(オランダ、英国)の存在、そこから大砲と砲弾が入手できる見通しがついて大阪との戦闘を開始した(p109)
・家康の死因は胃潰瘍、真田幸村の家康本陣攻撃による衝撃で胃に穴が開いたのだろう、彼の残した遺産は300万両(2兆円以上)である(p110)
・正徳の改鋳(1714)によって物価上昇が止まらなかったのは、貨幣のせいではなく、幕府の放漫財政と、天変地異・天災の続発のせいである(p119)
・享保の改革時の改鋳(1736(は、丁銀(銀貨)の質を、金貨よりも落とすことにより、金・銀間の交換レートでの、金高を目指したもので、物価安定には効果があった(p120)
・日本では、家康の定めた、金1両=銀50匁を公定相場としてきた、これを重量比較でいうと、金1:銀10であった。世界では1520年ころからメキシコ、1530年ころからペルー銀山が開発されて、1:12から、1:15-16へ銀が暴落していた。これをオランダは教えずに、安い銀を日本に持ち込んで、金貨を買いあさった(p129)
・日本国内では1両は1両だが、長崎に持ち込めば、2両が三両相当の銀になった(p129)
・18世紀後半には、武士の俸給の基盤であるコメは、物価高の中で下がり続け武士の貧困化が進んだ。ここに至って、海外との交易をやめたほうが良いという、鎖国論が叫ばれるようになった、このころから、このような対外政策を「鎖国」という言葉で呼んだ(p133)
・明治4年(1871)の新貨条例により、純金二分(1.5グラム)を、1円と規定しており、金本位制を標榜していた。1円=金1.5グラム=銀24.26726グラムなので、金銀比価は、1対16.2と、国際水準に近かった、にも拘らず海外の悪質な銀を持ち込んでは日本の銀貨と交換して、日本の金貨や小判などを持ち出そうとした連中はいた、この金貨は没落した274の大名から出てきたのだろう(p146)
・貿易決済のために、開港場に限って、1円の貿易銀貨を発行したので、金銀複本位制である。(p146)
・日本では、新幹線と一部の私鉄のみ広軌を採用していて、JRの在来線や多くの私鉄は狭軌、東京の地下鉄丸ノ内線は広軌のため、どの私鉄とも繋げない(p150)
・日清戦争の賠償金(2億両=3億円、純金換算279トン)は、ロンドンのイングランド銀行で、英ポンド表示の小切手で支払われた。産業を興すための資金調達は、英貨建て国債が多発された、この海外準備金として、159トンは固定されていた(p151、154)
・朝鮮戦争で活躍したソ連の戦闘機は、旧ヒットラードイツ空軍の設計によるものであった、このときのアメリカのピンチを救ったのは、武器などを満載した日本の数百隻に上る、漁船混じりの輸送船団である、これによりアメリカ軍は仁川の逆上陸に成功した(p170)
・最近の各国の通貨発行量の増加と、GDPの増加を見ると、アメリカの通貨発行量の増加(3倍)が、GDPの増加(1.5倍)より多い、中国(4倍に対して、5.9倍)、ユーロや日本は同等、これでは近いうちにドルが紙切れになる日が近い(p177)