・死を「穢れ」とする発想は、狩猟や漁労を生業とする縄文人には無い、征服民で農耕民族の弥生人が縄文人にした蔑視に基づくものと考えられる(p10)
・城の本来の訓読みは「き」であり、「しろ」ではない、平安京に遷都した桓武天皇が無理やり山城を「やましろ」と読ませたので、これ以降は訓読みは「しろ」と読むようになった(p56)
・交易独占権(事実上の支配権)を徳川幕府から与えられた松前藩は、家臣たちの知行高(給与額)に合わせて定められた場所でアイヌと交易する権利をあたえる商場知行制を採用した(p74)
・ゴルフで規定より1打少なく打つのが、バーディ(小鳥)、2打少なくは、イーグル(タカ)、3打はアルバトロス(アホウドリ)、4打はコンドル(鷲)である(p115)
・間宮林蔵が1809年に間宮海峡を発見し、樺太が島であることを確定したが、松平定信はこの調査団の成果を「なかったこと」にした、調査にかかわった人たちを罷免した(p130)
・差別を徹底しようとすれば、その差別の根拠となる「肌の色の違い」「文化の違い」を絶対に残しておく必要がある、日本が朝鮮でとった方法(日本語教育、日本名許可)では差別ができなくなっていく(p145)
・世界の常識である、国を売ってもよいから命だけは助かりたい、という日本人は幕末時にはいなかった、それは天皇教の信者であり国土を売る(天皇を裏切る)ことはできなかったから(p166)
・幕末においては、日本的朱子学と国学、神道の普及によって日本人は将軍家も含めて日本国の国是について最終的な決定権を持っているのは天皇だと固く信じていた(p194)
・死んでも霊となって側にいるという考え方を定着させてのは、本居宣長の後継者と称している神道家の「平田篤胤」であった(p217)
・法華経には「唱題すればよい」とはどこにも書かれていないので、天台宗は日蓮を「インチキ」としたが、日蓮宗には「庶民への配慮」があり、京の商工業者に広まっていった(p237)
・政府は相手がロシアの場合、鎖国をいう建前を保ちつつ実利を求める方法はあったのに、それをしなかった、薩摩藩が琉球を使用したように、蝦夷地とアイヌ民族を使えば良かった(p270)
・朱子学の政治への悪影響は、1)新しい事態への柔軟な対応ができない、2)歴史をねつ造してしまう、3)外国人を野蛮人と決めつけて、その文化を劣悪なものとして無視する、である(p283)
・幕末の大政奉還とは、政権交代のこと(p286)
・フェートン号事件が起きた1808年のオランダは、ナポレオン戦争によりフランスに併合されていてオランダは実質的に独立を失っていた(p294)
・維新に活躍した雄藩として、佐賀藩が入るのは、明治維新直前において佐賀藩は工業力を生かして世界最新鋭のアームストロング砲を多数保持していて彰義隊との戦争を一日で終わらせ、会津若松城も開城させたから(p299)
・江戸幕府が経済的に過ちを犯したのは、1)農業からの税収に頼り、商工業や貿易からの税収を拡大しなかった、2)米本位制をとって銭本位制にしなかったこと、である(p337)
・長州では特産品の蠟の専売を解いて自由な取引をする代わりに、運上銀(流通税)をかけることで利益を上げた、下関海峡があったため(p378)
・黒船ショックとは、日本国が安全度100%から危険度100%へ転落したこと、及び「200年以上の武器の技術格差を知らされたこと」である(p387)
・イギリスやイタリアが舗装率100%であるのは紀元前からである、この理由は当時から車社会であったから(p395)
・日本は「言霊の国」である、嫌な情報、見たくない情報は消してしまえばよい、という考えがある(p427)
・ヨーロッパでは傘とは女性が使うもので、大の男が使うのは女々しいとされていたが、イギリス人の紀行家が外国では雨の日には傘を使うことを気づいてイギリスで実施した(p435)
・江戸時代が100万都市でありながら警察官が少なかったのは、「分を守る社会であった」から(p443)
2011/3/20作成