・600万人もいた日本軍は、武装解除されて復員となり、急速に消滅した(p32)1945年10月のGHQ5大改革指令とは、婦人の解放・労働組合の結成・教育の自由主義化・圧政的諸制度の撤廃・経済の民主化、であった(p32)
・1947年には、独占的巨大企業を分割する、過度経済力集中排除法が制定されて、分割対象として325社が指定されたが、冷戦激化による対日政策の転換により、実際に分割されたのは、日本製鉄、三菱重工などの11社にとどまった、農地改革により自作地が生まれ、半分を占めていた小作地も1割に減った(p33)
・アメリカに単独統治された理由として、日本は戦闘を、アメリカ・イギリス・オランダ・中国・ソ連の5か国および、その植民地の人々と交えたが、敗れたのはアメリカのみ。イギリス、オランダは緒戦で撃退、中国とは終戦まで優勢、ソ連とは中立条約を締結(p35)
・列強強国は様々なルート(援蒋ルート)を通じて、蒋介石の国民政府に食料、武器を支援したので、日本軍はいくら戦いにかっても戦争は終結できなかった(p40)
・フランスがドイツの支援下におかれたので、同国の植民地であったインドシナが空白状態となり、1940年日本軍は資源豊富なインドシナ北部に進駐した(p41)
・満州の、奉天・吉林・黒竜江省を占領、1932年3月、3省を中国から切り離して、満州国を樹立させた、さらに隣接の華北5省(河北、山東、山西、スイエン、チヤハル省)を勢力下におこうとした(p44、46)
・第一次世界大戦の戦争景気により、1914年には11億円あった国家債務は解消、6年後には27億円以上の債権国となった(p52)
・1930年、金解禁を断行、1917年から廃止していた金本位制を復活、100円=75グラム=50ドルとしていたのを、円の価値が下がっていたにも関わらず、浜口内閣は同ルートで断行、円の価値は高くなった。輸出は不利だが、不良企業を淘汰しようとした(p53)
・王政復古の大号令により、三職(総裁、議定、参与=新政府の実権保有)が、薩摩・尾張・越前・芸州・土佐から選ばれた、長州がいないのは、1864年の禁門の変で朝敵となっていたから(p61、86)
・陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥が支配した、警察組織も薩摩藩出身が多かった、高級官僚の多くは、薩長閥であった(p63)
・天保時代に諸藩はさまざまな藩政政策を行った、成功したのは、薩摩・長州・肥前・越前藩であった、肥前藩の改革では、均田制度が実施された、大半を小作人に分与して本百姓が創出された、太平洋戦争後の農地改革のようであった(p65、67)
・1843年、忠邦は、江戸・大阪10里四方を幕府の直轄地にする、上知令を発した。収益の高い地を幕領にして、増収をはかるとともに、江戸と大阪周辺を幕府が支配することで、戦時に即応できる防衛態勢を構築しようとした、しかし強い反発があり、家慶の名において、正式に撤回、忠邦も罷免された(p105)
・天保の飢饉(1833-1840)はひどく、特に1835年には、春から夏までまったく気温が上がらず雨が続き、稲刈りの時期には台風、低温による霜の被害により稲の収穫は壊滅的であった(p108)
・大塩平八郎の乱(1837.2.19)は1日で鎮圧されたが、各地で幕府に対する挑戦状が奉行所に行き、署名入りの幕政批判の張り紙や落とし文が見られた。彼に感銘を受けて、4月に備後国三原、5月に播磨の国加東郡、6月越後国柏崎、7月摂津の国能勢、で一気が発生している(p111)
・蝦夷地開発計画をたて、1785年の探検隊によると、580万石の収穫が期待できる(幕僚450万石)とした(p124)
・年貢は個人ではなく、村全体として一括納入させた、事情があって払えない農民がいても、連帯責任でほかの村人が不足分を足して払った(p132)
・秀吉は、検地帳をつくり、年貢を村単位かける(村請制)とし、これは江戸時代に踏襲された、土地の生産力の計算方法を、銭に換算した「貫高制」から、石高制に変えた河石高におうじて軍役を負担、大名の石高が可視化されたので、他の土地に大名を移すことが可能となった(p134)
・刀狩の真の目的は、農民一揆の防止、耕作に専念させること、そのうえで、人掃令、身分統制令を発した(p135)
・1616年に、中国船以外の貿易船の寄港地を、平戸・長崎に限定、1622年に長崎でキリシタン、宣教師を処刑、1624年スペイン船の来航禁止、1635年日本人の海外渡航、帰国を全面禁止、1639年にポルトガル船の来航禁止(p150)
・江戸時代の海外との交流は、長崎・対馬・薩摩・松前の4か所があった。長崎が唯一の国際港として、オランダと中国に開かれていた。対馬の宗氏は、朝鮮から輸入、東南アジアへ輸出、薩摩藩は琉球国に中国との朝貢貿易をさせた、松前氏はアイヌとの独占交易権を保証された(p133)
・幕府は北朝を奉じて南朝と戦ってきたが、足利義満は、弱体化した南朝の後亀山天皇に働きかけ、南北朝統一を承諾させた、1392年南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を譲る形で、朝廷は一つになった(p178)
・1350年当時は、単独相続性が進み、兄弟の家督争いが激化、互いに南朝や北朝を後ろ盾にして争うケースが激増した(p185)
・院政の全盛期は100年続き、結果的に朝廷における藤原氏(摂関家)の影響力を削いでいくことになった(p214)
・摂関職の地位につけるかは、天皇の外戚(母方の親戚)になることが絶対条件であった(p232)
・氏とは、血縁集団を表す、姓とは、家柄や職務に応じて、地位や身分を示すものを、大王からもらったもの(p259)