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徳川家康と9つの危機 (PHP新書)

徳川家康と9つの危機 (PHP新書)の写真

・北条早雲の子として知られる氏綱だが、父の早雲は自らを北条と称したことはなく、氏綱の時に初めて北条姓を名乗るようになった、この苗字は鎌倉幕府の執権であった「北条」からとったもので、新興勢力である彼が関東の武士たちを支配するために伝統的なこの苗字を拝借したのである(p19)

・徳川広忠は今川義元に助けを求めるために家康を人質に差し出したのではなく、降伏した証として織田信秀に我が子家康を指したという異論がある(p23)家康は14歳で元服し、松平次郎三郎元信と名乗ることになった、「元」は烏帽子親となった今川義元の一字を拝領したものである、次郎三郎は父や祖父の俗名、「信」は先祖にそれを持つ者が何人もいたからだろう(p26)1563年3月、家康は信長の娘・徳姫を信康(長男)の嫁にする約束を取り交わし、7月には元康から家康へ改名、独立大名となることを宣言した(p43)

・少なくとも桶狭間の戦いのあった1560年中には、家康は氏真とは敵対していない、明確に離反するのは翌年4月に今川方の三河国牛窪に兵を入れた時、氏真は家康が敵対したと記しており両者の関係が決裂したことがわかる(p37)

・三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えとともに「神君三大危機」と呼ばれる(p44)

・1569年5月に今川氏真は掛川城を出て北条氏の保護を受けることになった、これにより遠江国は徳川の手に落ち、今川氏は消滅することになった、翌年家康は三河の岡崎城から遠江国の浜松城(引間城を改修)に拠点を移した(p64)

・天下布武とは、全国を平定して武家政権の樹立を目指すという意味ではない、室町幕府の将軍政治を復活させ、畿内(天下)に静謐を取り戻すことだと解釈されるようになった(p65)

・近年の研究の進展によって、戦国時代の通説は大きく塗り変わってきている、本来、家康の危機と言われてきた「金ヶ崎の退き口」激闘で苦戦したと言われる「姉川の戦い」もどうやら史実ではなさそうである(p74)

・長篠の戦いで武田軍が大敗した理由は、勝頼の慢心か、信長の足軽鉄砲隊の攻撃か、それとも背後から敵が来たから、どれもそうではないと考えられる。信長方の兵が武田方の倍以上いたのが最大の原因であろう(p103)

・清洲会議で所論となったのは、名代(三法師が幼少であるための暫定的な家督)として信雄・信孝のどちらが務めるかということであった、ところが両者ともに名代になることを目指し譲らなかったので、宿老は両者とも名代にせず、幼少の散歩うしを当主に据えて、宿老を中心に今後の織田家の運営を進めることで決したという視点もある。賤ヶ岳の戦い以降、秀吉は天下人として振る舞い始める、信雄は尾張・伊勢・伊賀の3カ国を領有することになった一方で、秀吉から「二度と天下に足を踏み入れぬ」ようにされた(p159)

・小牧長久手の戦いは家康の勝利だったように言われるがその認識は正しくない、実際の戦いは11月まで続いている(長久手の勝利は4月)戦後、講和といっても事実上の降伏であり、領地も伊賀国と南伊勢を削られ、所領は尾張一国と北伊勢5郡のみとなった、こうして戦う名分を失った家康や兵を引いた(p165)

・豊臣政権との対決は避けられない状況になったが、秀吉はにわかに徳川征伐を中止した、それは天正大地震であろう。(p175)

2022年10月2日読了