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逆説の日本史 23 明治揺籃編 琉球処分と廃仏毀釈の謎 (逆説の日本史)

逆説の日本史 23 明治揺籃編 琉球処分と廃仏毀釈の謎 (逆説の日本史)の写真

・北朝鮮は天国どころか地獄であることがわかると、産経や読売は北朝鮮帰国事業に協力するのをやめたが、真実を報道しないことで協力し続けたのが朝日新聞であった(p33)

・十七条憲法にある「和の精神」の底にあるのは、敗者が怨霊と化すことへの恐怖がある(p60)

・すみません、ではなく「残念です」という言葉は、謝罪ではない。何が残念かと言えば「誤解されたのが残念」ということ(p82)

・信長軍が帝国陸軍に勝てる理由は、木下藤吉郎は帝国陸軍では大将(師団長)になれないから、藤吉郎は陸大を卒業していないから、大佐(連隊長)止まり、これも陸軍士官学校を出ている場合で、足軽(二等兵)からのキャリアであれば少佐止まりである(p85)

・大日本帝国軍の兵器にはすべて菊の御紋章がついており、天皇から下賜された形式を取っているので、文句は言えない(p88)

・1993年の非自民連立内閣への政権参加後には、村山首相は、党内論議を経ないで、1)自衛隊合憲、2)日米安保の堅持、3)非武装中立の政策的終焉、を表明して従来方針を大転換した(p101)

・アメリカは日本と戦争が避けられないと考えたとき、最も優秀な学生に日本語を学ばせた、それが日本の暗号解読にもつながった、日本は見事にその逆をやった(p108)

・飛鳥時代は天皇一代ごとに遷都が行われていたが、そんなことをしていたらインフラ蓄積ができないので日本は発展しない。そこで持統天皇は大英断を下し、自らの遺体を神道武士葬から仏教的火葬に改めるように命じた、「ケガレ忌避による頻繁な遷都」を解決しようとした。そして日本の首都は平安京で固定した(p120)

・最初に中央に反乱を起こした武士団の棟梁(平将門)は失敗したが、その夢を引き継いだ源頼朝は武士政権(鎌倉幕府)を確立した(p120)

・ODAには「円借款」「無償資金協力」「技術協力」の3種類があるが、このうち円借款は1980年から2007年まで、総額3.3兆円も供与した(p138)

・日本が負けたのは、蒋介石であり毛沢東ではない、毛沢東率いる中国共産党は日本との戦いで披露していた国民軍に勝ち、台湾へ追いやった(p142)

・朱子学の欠点として、孝を絶対化する(先祖の決めたことは絶対守る)、外国のものは全て野蛮であると決めつける偏見がある。これは孔子・孟子の儒教には無く、朱子が始めた儒教(朱子学)にある、南宋を建てた漢民族の一員の朱子が選んだのは、現実を直視することではなく空論に溺れることであった(p157、176)

・琉球よりも「おきなわ」という名称が古い可能性がある、奈良時代に仏教を伝えた鑑真の伝記には、阿児奈波(おこなは)島という表現がある、琉球という地名が確定したのは、元を倒し明を建国した太祖洪武帝が1372年に中山を服属させてから(p188、189)

・家康は島津忠桓(ただつね)に自分の諱から「家」を与えて、「家久」と名乗らせた破格の待遇を与えた、普通は下の字を貰って上につけるもの(p194)

・明国では貿易は犯罪なので、まともな貿易商人は海賊扱いされて「倭寇」と呼ばれた、認められている貿易は、朝貢貿易と、それを簡略化した「勘合貿易」である(p198)

・足利義満のように頭を下げて(家臣となって)日本国王に任じてもらうやりかたもあるが、家康はその代わりとして、日本の代わりに頭を下げて中国の家臣となり朝貢もするが、実際には日本の一部であるかのような「ダミー国」として琉球にそれを求めた(p199)

・商売を軽視した幕府武士が、貿易は人間の屑がやる仕事として長崎商人に丸投げしていた、これにメスを入れようとしたのが老中田沼意次である、しかしこれを潰した松平定信は、寛政異学の禁にて、朱子学以外を認めない法令を出した(p201)

・幕末から明治にかけての日本の近代化とは、朱子学からの脱却・払拭であった。朱子学は「毒酒」(室町時代に輸入)であり「毒」では無い。毒ではなく薬と思うから飲み、中毒となる、毒と分かっているものは飲まない(p216、218、225、264)

・日本は新道の国であり、その聖典を言うべき「古事記」には大きく3つの思想が語られている、1)穢れ(あるいはケガレ忌避)、2)言霊、3)和、である(p254)

・仏教は日本人にとって受け入れやすいものであったが、キリスト教はそうでなかった、土壌が無ければ必ず枯渇する、インドにおける仏教のように(p257)

・新道の神である熊野権現は、仏教の阿弥陀如来と同一とされて、平安時代後期には紀伊の国熊野の地は、この世の極楽浄土(阿弥陀如来の住処)とされ、天皇を引退した上皇たちは熊野詣を盛んに行った(p259)

・一神教の反対は、無神論である、一神教の反対は多神教ではない。(p266)

・檀家制度は、幕府がキリシタン防止のためにその制度を敷き、菩提寺を事実上の戸籍管理者とした、庶民(特に農民)が旅をするための通行手形を発行するのも、菩提寺の住職の重要な仕事であった(p271)

・薩摩hじゃ、外城士という独特の制度があり、末端の農民に至るまで村役所(武士)が管理していた、予備役の形であった。だから幕末において長州の奇兵隊のような組織を作らずともかなりの人数を動員できた(p276)

・明治新政府は江戸時代の宗門人別帳を廃止して、新戸籍法を制定した、戸籍を管理していた寺院の役割を奪った。そして神社の氏子制度は逆に法制化して、農村などでは住民の情況が村の鎮守社に把握されるようになった。新政府は、全国の神社を、官幣社・国弊社・郷社・村社などと格付けし、社格に応じて国家から祭りのたびに幣帛料を送った(p284)

・明治天皇が伊勢神宮に参拝する、1869年3月までは、全国神社の総元締めは、京都の吉田神社であった、吉田家は日本全国の神社神職の任免権を持っていたが、この参拝により吉田神社は地方の一神社に格下げされて、伊勢神宮が第一位、国家の宗廟(天皇家の祖先の霊が宿るところ)となった。1871年には、伊勢神宮を筆頭に太政官布告がなされた(p287)

・1872年4月(明治5年)には、太政官布告として、本願寺系僧侶以外には固く禁じられていた、肉食(生き物を殺して食べる、釣りも含む)・妻帯(正式に妻をめとる)・蓄髪(頭をそらずに髪を延ばす)を、「勝手=自由」とした、江戸時代にはとくに妻帯(女犯)は法律で厳罰に処した(p289)

・神社にも神人(じにん)と呼ばれる専属兵士がいたが、寺院の僧兵に比べて影が薄いのは、やはり死穢を嫌う神道勢力が、祭礼・医療などの死穢に触れる稼業を伝統的に仏教に委任したことに由来するだろう(p294)

・日本人が最も大事ににするのが「和」である、中国人は「孝」であるので、親が危篤なら必ず帰る、妻が病気なら帰るのがアメリカ人である、大切なのは「愛」であるから(p315)

・言霊に影響されている日本人が一番苦手なのは、危機管理と契約である(p349)

・サムライの国であるはずの日本が、同時に「平安貴族の国」である、遡れば、縄文文化(動物殺す)と弥生文化(植物でいきる、動物を殺さない)の対立まで行きつく、世界に類を見ない、幕府と朝廷の700年にわたる併存も根底にはこれがある(p359)

・元からあった本願寺は通称「西本願寺=正式名称は本願寺」、家康の後押しでできた本願寺は通称「東本願寺=正式名称は真宗本廟」と呼ばれた(p363)