・前9世紀に鉄製戦車と騎兵隊を導入したアッシリアは、前8世紀の終わり頃には、シリア・フェニキア・バビロンを併合、イスラエル王国を滅ぼし、前663年にはエジプトを征服し、史上初めて、メソポタミアからエジプトにかけてのオリエントの世界を統一的に支配した(p26)
・前323年、アレキサンドリア大王は早世し、プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリア・アンティゴノス朝マケドニアの三国に分裂した(p31)
・歴史上、掠奪行為と商行為を明確に区別することは難しい、買い手の方が強い立場にあり、売り手が想定するより低い価格で、半ば強引に買い取ったという場合は、掠奪行為とも商行為ともいえる(p35)
・西ローマ帝国が滅んだ後も、古代地中海世界という統一体は続いていて、それを打ち破ったのは、7世紀、、ムハンマドにより誕生したイスラム世界である(p40)
・アッバース朝は、イスラム世界に革命的転換をもたらした、それまではアラブ人のための宗教であったが、イスラム教徒であれば平等に扱われた(p44)
・ヴァイキングが切り開いた、北海・バルト海の商業ネットワークは、その後、ハンザ同盟に引き継がれる、その後継者がオランダ商人である(p48)
・ポルトガル人は初めからアジアを見つけたのではなく、アフリカに行こうとして大航海を始めたと考えるのが妥当である(p53)
・ガーナ王国は、金鉱自体ではなく、金を掘る部族との交渉を独占し、金の流通拠点として栄えた、商業力を高めるために中央集権化していった(p55)
・第二次ポエニ戦争(前218-201)頃のカルタゴは、砂漠化がまだ進んでおらず、カルタゴ周辺にもアフリカ象が生息できる環境があった(p56)
・ポルトガルは1444年に大航海をはじめ、翌年にはヴェルデ岬に到達、直接西アフリカの金交易に参加できた。その結果1452年に、ポルトガル初の金貨が鋳造された(p60)
・香辛料の輸送量で、喜望峰ルートが地中海ルートを上回るのは、バスコダガマの時代から100年以上経て、17世紀になってから。この転換は、イタリア経済に大打撃を与えた。インドや東南アジアとつながる異文化交易圏からイタリアが切り離された(p65)
・信長の段階で日本は欧州型火器の国産化に成功、硝石を除けば鉄砲生産に必要な物質は自国生産可能であった。江戸時代には硝石も自給自足可能であった。武器商人としてイエズス会の重要性は低下していた(p81)
・文字を読み書きできるのは聖職者のみであった、写本のおおくは修道院で作成され、ごく限られた人のなかでしか流通しなかった(p84)
・市場が発展するには、多くの商人が比較的容易に参加できるように、広く商業情報が共有されていなくてはならない(p89)
・12世紀のハンザ商人は文字が書けず、聖職者が代行していたが、14世紀にはラテン語や低地ドイツ語で文書を書くようになった。イタリアでも俗語であるイタリア語が通用してきた、グーテンベルクの発明した活版印刷技術により、聖職者から商人が力をつけてきた(p91、92)
・商売の手引きは、カトリック・プロテスタント・ユダヤ教といった宗教・宗派と関係なく広がっていった、商業においてはマニュアル化の力は宗教を超えた(p95)
・教皇子午線を設定したが、これによると大西洋の西側は全てスペインのものになるので、ポルトガルは反対して、1494年この境界線を西側に1500キロほどずらした線で分割することにした、これがトルデシリャス条約、1522年マゼラン一行が世界一周すると一本の線で分割できないことがわかり、サラゴサ条約が結ばれた。モルッカ諸島の東を通過する子午線を境界として、西をポルトガルとした。これによると日本はポルトガル領となる(p103)
・イギリス東インド会社がアジアで貿易するとき、現地交渉はポルトガル商人に頼らざるを得なかった、19世紀初頭までペルシア湾からマカオまでの商人の共通語はポルトガル語であった、商業ネットワークを切り開いたスペイン・ポルトガルであり、それを、オランダ・イギリス・フランスが活用した(p107)
・カール5世は、神聖ローマ皇帝であるとともに、スペイン王であり、さらにネーデルランドとイタリアを支配していた。フェリペ2世は1556年に父のカール5世が退位したとき、オーストリアを除く全領土を引き継いだ。つまり彼にとっては、スペインは支配地の一つであり、大事なのは帝国繁栄であった、すると銀の流出でスペイン経済が衰退、かわってネーデルランドが反映したというのはおかしい(p109)
・中国へのアヘン貿易は、イギリスが運んできたベンガルアヘン(インド北東部産)よりも、ポルトガル人によるマルワアヘン(インド北西部)が多かった(p113)
・イギリスは間接税(消費税)を中心にしていた、長期国債を新規発行するたびに、その利子を支払うために関税、消費税、スタンプ税といった間接税を増やしていった、このような税制がイギリスに幸いした(p142)
・政府、議会、中央銀行(予算案の対立無し、国債償還は議会が保証)が結びついた資金調達システムこそ、増大する借金にもかかわらず、イギリスが戦争資金の調達に成功し、財政を維持できた秘密であった、これがイギリスを欧州最大の国家に押し上げた(p147、150)
・インドの手織り綿生産と異なり、イギリスでは工場制度が発展した、1770-90年に10倍、それから12年間でその10倍になったが、1820年になってもインドの生産量を下回っていた(p161)
・イギリスのみが綿生産システムを成功させられたのは、アフリカから新大陸に奴隷を運び、新大陸で綿花を積み、本国で製品化、アジアで販売するまで、自国の船・支配下にある港で輸送し、海上保険まで自国で賄えたこと(p163)
・欧州では絶え間なく戦争を繰り広げながら、同時に海外からの大量物産を輸入し続けて経済成長ができた。これが可能だった秘密は、中立国・中立都市にあった。中立国の船を使えば、イギリスの商品をフランスに英仏が戦争をしていても運ぶことが可能であった(p169)
・戦争の世紀において、中立都市ハンブルクは一種の安全弁として機能し、商業都市となっていった。アメリカ合衆国も同様(p172、177)
・アメリカ合衆国の奴隷解放宣言とは、あくまで奴隷を国内では使用しないことであって、国外で奴隷が生産した商品を輸入しないことではなかった。キューバでは奴隷制は1886年まで続く(p180)
・欧州が経済成長し、アジアが停滞した理由の一つとして、欧州諸国は中立都市・国を利用して貿易を継続し、戦争の影響を最小限に食い止めらたことにある。宗教戦争により商人の大移動があり、欧州商人のネットワークは拡大した(p181)
・イギリスは工業製品の輸出で利益をあまり出していない、19世紀後半以降、海運業・保険・貿易による利益、サービスからの収入の大きな伸びが顕著である(p202)
・イギリスが敷設した電信は、近世の多種多様な国際貿易商人によって利用されたルートをほぼそのまま使った、ここに近世と近代の大きな連続性がある(p211)
・資本主義社会では、自分が働くのではなく、働かなくても自動的にお金が入る仕組みを作ったものが豊かになれる、これが国家になったものが、ヘゲモニー国家である。大事なのは他国の足を引っ張って競争に勝つことで儲けるのではなく、他の国も含む世界全体の経済が拡大することが自動的に自分の儲けを増やすことになるというシステムを創ること(p225,226)