・国全体を揺るがすような大きな戦いを「乱」、影響が限定的で規模が小さな戦いを「変」である、乱や変でどちらが勝ったかよりも、当時の日本がどうゆう状況にあり、当時の日本人が何を選択したかを考えるのが重要である(p17、24)
・当初は京都から派遣されたが、京都に戻っても出世できないと思った役人の中には人気が終わっても土着(p31)
・中央から国衙に派遣される地方官が国司、四等官制によって、守・介・掾(じょう)・目(さかみ)が置かれた、京都から派遣されていたが、帰っても出世が見込めないと思った彼らは、土着して私営田領主となっていった(p31)
・武士が戦う時の基本は、刀ではなく、馬に乗り弓で矢を射て相手を倒すこと、弓を持つ左手を弓手(ゆんで)、馬の手綱を取る右手を馬手(めて)と呼んだ、左側前方に相手をとらえて矢を射る(p33)
・源氏は、嵯峨天皇が皇室財政の負担を軽くするために、皇子・皇女を臣籍降下させて、その際に与えた姓「源」がルーツになる。合計21流あるなか、最も力を持ったのが、清和天皇の孫・経基から始まる清和源氏で、頼朝はこの嫡流(本家)である(p49)
・坂東八平氏である、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾氏は、武家の棟梁になれなかった、東の源氏と西の平氏がおたがいに力を得たことが、保元の乱の背景にあった、源氏は藤原本家の傭兵隊長、平氏は上皇の傭兵隊長であった(p51)
・後白河天皇についた藤原信西は、敵対する宗徳上皇の勢力を武士によって殲滅すべく、勅命をだした、これに応じたのが、平氏の当主・平清盛と、源氏の当主・源義朝である(p58)
・平治の乱は、敗北側:藤原信頼・源義明・源義平・源頼朝、勝利側:藤原信西・平清盛・平重盛・平頼盛(p67)
・平治の乱自体は大した戦いではなかったが、武士が朝廷の一員になったという点では大きな意味がある、清盛は武士のトップだけでなく政治家としてのトップに上り詰めた。当時の朝廷や貴族たちからすれば、どうでもいい地域の東に、武士だけの権力が誕生するが、保元・平治の乱はそのおおきなきっかけとなった戦い(p70、71)
・日本の中世では、天皇(王家)を、貴族(公家=政治)、武士(武家=治安維持・軍事)、僧侶・神官(寺家・社家=祭祀祈祷)が支えていた、陸奥平泉の奥州藤原氏をいれる考え方もある(p76、78)
・治承、寿永の争乱(1180)は、源氏と平氏の戦いではなく、朝廷による反乱の鎮圧であり、それが源平の争乱として表れている(p81、86)
・承久の乱とは、日本史上唯一、官軍が負けた戦いである、旧体制の復権を主張する後鳥羽上皇と、武家政権を樹立した新体制を主張する鎌倉幕府との戦いである(p94)
・北条義時は、ライバルを次々と引きずりおろした、まず梶原景時、次が比企能員(よしかず)、畠山重忠、和田義盛、これにより義時は政所・侍所別当を兼ねることになった(p104)
・鎌倉幕府が始まった時、平氏から没収した所領が500か所、承久の乱によって没収したのは3000か所、これにより幕府の勢力は西国を含む全国に広がった(p112)
・幕府の財産とは、御家人の不動産の総和なので、御家人が土地を売り払って品物を手に入れるようになると、幕府の財産も目減りした。徳政令が出される素地がここにある。鎌倉幕府は貨幣経済の進展に追いつけなかった(p133)
・足利尊氏は直義を追いかけるために関東に向かう時、南朝と和議を結んだ、北朝の崇光天皇を退位させて、観応という北朝年号を廃止して、南朝の年号(正平)に統一、南朝の後村上天皇に忠誠を誓った(p139)
・悪党とは、室町幕府から御家人として認められなかった武装集団、新興集団をいう。社会秩序を乱す者とshちえ、幕府や荘園領主と対立した(p158)
・管領とは、将軍を補佐して政務を統轄する職のことで、足利氏の一族である、細川氏・斯波氏・畠山氏の三家が持ち回りで行い、三管領と呼ばれていた。次いで要職だったのが、京都の警護・訴訟を担った侍所で、その長官「所司」になれるのが、赤松氏・一色氏・山名氏・京極氏(佐々木氏)・土岐氏、途中から土岐氏が外されたので「四職」と呼ばれた(p166)
・室町幕府の在り方を決める政策が、明徳2-4年に起きている、1)明徳の乱により山名氏の勢力減退、2)南北朝の合一、3)東日本を切り離した、鎌倉公方が管轄することになった、4)幕府が京都支配をする(p176)
・堺の権益は、初めは山名氏、明徳の乱の後には大内氏、そして応仁の乱の結果、細川氏が握った(p180)
・幕府が西日本を中心に舵を切ったことが、斯波氏衰退の背景にある(p189)
・足利義満と細川頼之によって、土岐氏、山名氏(明徳の乱)、大内氏(応永の乱)が潰された。応仁の乱での対立図式は、足利義満時代に勝ち組だった守護大名が東軍、負け組が西軍に加わっている(p194)
・斯波氏は、越前・尾張国の守護を兼ねていたが、応仁の乱の後には、越前は守護代の朝倉氏、尾張国は守護代の織田氏に奪われている(p197)
・関東、東北、九州の守護大名の多くは、戦国大名に転身することに成功している、京都に縛り付けられず、地元にいたから(p198)
・応仁の乱は東軍である、細川氏が管領を独占し、幕府の要職を独占したから(p199)
・一向一揆が江戸時代で退潮したのは、人々が平等な世の中よりも、平和な世の中を求めたから(p228)
・西南戦争は、旧薩摩藩を中心とした武士の軍隊・反乱軍と、武士以外も含む徴兵軍(国民軍=政府軍)の戦いで、徴兵軍が勝利した、最後の大乱である、そして武士の否定が西南戦争の本質である(p241,244)
・今私たちが生きている時代はどのような時代か、それはトレンドの終わりか始まりなのか、それを見極めるために歴史を学ぶ意味がある(p251)