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秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか 「家」と托卵でひもとく日本史

秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていたのか 「家」と托卵でひもとく日本史の写真

・ 藤原氏が増えすぎると区別がつきにくくなるので登場したのが、住まい・役職を関連付けた呼び名である 。藤原道長を「御堂関白」 住まいが 九条にあったことから 藤原師輔を「 九条殿」 と呼んだりした(p17)

・藤原本家からは、 近衛家・ 松殿家・九条家の3つの家が確立され、後の摂政や関白といった役職は この3つの家から排出される。 このうち 松殿家は、木曽義仲と組んだことで 没落し、近衛家と九条家が生き残る。 近衛家からは、 鷹司家という分家、九条家からは、一条家と二条家 が発生し、この5つが摂政を排出する「五摂家」として固定化された(p19)

・一般には各血筋をまとめた総称が「氏」その中の1つの最小単位が「家」であると考えられる、「 の」をはさんで呼ぶ場合、例えば「藤原の道長」は、「藤原氏の道長」を意味する、「の」が付かない場合は「家」を表ている(p19)

・戦国時代になると「家の存続こそが最優先」という価値観が確立されていったので、血のつながりよりも「家」が重要視された。子供がいない家では親戚筋から養子をもらうのが当たり前であったし、 血縁でなくとも用事を迎えて 家を存続させる手段も取られた 。そんな中では 他人の 子種、 すなわち 托卵も大きく 問題視はされなかった(p23)

・ 家康から「秋田へ行け」と 国替えを命じられた際、 佐竹氏は憤慨したが 仕返しとして、常盤の美しい女性たちを連れて 秋田へ移ったことで 秋田美人が生まれたという伝説がある。 佐竹氏は日本の武士の中で最も古い歴史を持つ 28万石の大名として存続し、 現在でも 秋田県知事を排出するような 名門としてその存在感を続けている(p38)

・仏教の場合 教えの正しさを巡って 論争が起こることはあっても 相手の命を奪うようなことはほとんどない、 キリスト教との違いの背景には 一神教と多神教の構造の違いがあると考えられる。キリスト教の場合は神は唯一であり、 その意志も一つしかないので 正しいか間違っているかの2者択一となり、 間違っているとされたものは容赦なく排除される が日本の仏教では仏が多数存在する、 そしてその仏たちが持つ それぞれの教えが尊重されるため協議の違いが直接的な暴力につながることはまれであった(p64)

・ 法然が広めた 教えの核心 は驚くほど簡潔であり 徹底したものであった、当時 主流だった天台宗や 真言宗のように、地位や財産 修行の厳しさ が 進行や救済に直結する考え方を完全に否定し「 南無阿弥陀仏」と唱える 念仏の一つで 極楽往生が約束されると主張した。この単純明快な教義は、 身分社会の中で苦しんでいた 庶民にとって革命的な救いのメッセージとなった(p66)

・足利尊氏は、これからの時代 経済の支配 こそが政治の根幹をなす、 と考えていた。当時の商業の中心地は京都であり、 そこに幕府を置くことで経済活動を管理し 商業に課税する制度を確立するべきだと尊氏は考えた。そのためには鎌倉に幕府を置いたままでは 商業の発展に対する支配が難しくなるので 幕府を京都へ移し 経済の流れを掌握しようとした(p71)

・平清盛は 内大臣に着いた後 一気に太政大臣へと昇進した、従って 右大臣や左大臣か 果たすべき 貴族的儀礼を果たすことができなかった、一方 足利義満は 内大臣から右大臣 左大臣へと 順を追い儀式を統括する立場を務めた、1つずつ 段階を踏んで昇進する方が格が高いとされていた(p76)

・室町幕府は単に武士の政権として存続するだけではなく 朝廷の枠組み そのものを自らの権力構造に取り込んでいった、 特に強化したのが当時最大の都市であり 経済の中心であった京都の富を吸収する機能であった(p77)

・ 足利義満は中国 ・明との外交の成功があった、彼は明と正式な外交関係を 樹立し、明の皇帝から「日本国王」として認められた、天皇ではなく 武家の棟梁 である 将軍が日本の代表として国際的に認知された。 これは国際社会においても 天皇を飛び越えたことを意味するのですごい話である(p79)