・上杉憲政治は越後の謙信のもとに逃げ込んだが、すぐに謙信の人柄に惚れ、上杉氏の名跡と関東管領の職を委譲した。以後、謙信が三国峠を越えてたびたび関東平野へ侵攻するのは、後北条氏を倒し、昔の秩序を回復するという関東管領としての筋目のためである(p38)
・詰問使は、三大老と五奉行の同意を得て家康のもとへ弾劾した、このとき池田輝政、黒田長政、藤堂高虎が家康に、利家側には、小西行長、長曾我部守親、細川忠興、加藤清正、浅野幸長が終結した、このときは家康が折れた(p51)
・三方ヶ原合戦において、敗戦が確実になると徳川四天王と呼ばれた榊原康政ほか多くの譜代家臣は浜松城へもどらず、そのまま他所へ遁走している、戦わずして尻尾をまいて城中にいたら、家康は譜代にさえ見限られていただろう(p78)
・小田原攻めにおいて、豊臣秀吉は徳川家康を通じて、武蔵・相模・伊豆を安堵するから開城せよ、後北条氏に寛大な講和条件を出した、そして裏切ったのが事実、こうしないと秀吉は勝てなかった(p97)
・別所氏は、播磨国守護、赤松氏の流れを汲み、このころは三木城を起点として、東播磨八郡に一族が勢力を広げていた、別所氏が反旗を翻したのは、秀吉の失言と言われている(p137)
・秀吉が信長から解任されなかったのは、つねに安土との連絡を保ち、必要であればみずから出向いて信長と会見し、自分の考えを説明し、指示を受けていた(p145)
・秀吉は、山名氏が反旗をひるがえした後、すぐに降伏しなかったことをせめ、因幡城から追放して毛利氏に通じた(p150)
・忍城は、江戸城の北を守る要塞として重視され、累代、徳川家の譜代大名が入封する城となった(p177)
2019年5月5日