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summary

怪しい戦国史

怪しい戦国史の写真

・戦国時代の合戦における兵力は誇大である、不退転の覚悟で佐和山を出発した石田三成が、20万石で6000、基本的には100石で三人と計算しているのが妥当(p27)

・兵農分離を徹底してやると、つまり兵種別編成をやると、褒美が出せなくなる。プロの武士ばかりで軍隊を編成したならばこの問題は解決できるだろうが、半農半武士であれば兵種別は不可能である(p37)

・小牧長久手の戦いでは、秀吉や尾張の犬山城に、家康は小牧山城に本営を置き、砦や土塁を修築して防御機能の向上(野戦築城)をした。こうすると両軍ともにうかつに攻撃できなくなる、だから先に手を出したほうが不利になる(p66)

・欧州や中国では道が城内を通っているので、旅人は城門でチェックをうけて行き来する、なのでここで攻城戦が始まる。日本では、道を場内に取り込んでいないので、城を無理に落とさなくても城兵に対しての備えを配置すれば先に進めてしまう(p96)

・織田信長は小牧山城を築くときに初めて石垣を積んだ、寺院にあった技術を応用した。あっという間に堅固な石垣が各地の城に用いられるようになり、山城から平山城、さらに平城へと変容した。都市全体を石垣で囲む「惣構え」も登場する(p96)

・福島正則は「できる男」でキーパーソンとの評価があったからこそ、関ヶ原の戦い以前に家康は、福島家との縁組を実行した。家康の姪にあたる満天姫を養女とし、正則の養子で跡取り、正之(かつて播磨三木城に籠城して秀吉と戦った別所長治の叔父)と結婚させた。関ヶ原後は毛利輝元の城だった広島城を与えられた(p109)

・大坂夏の陣の開戦時点で、大坂城は堀を失い、二の丸・三の丸を破壊され勝負はついていた。織田信雄、織田長益(有楽斎
)などは城を出ている(p124)

・今川義元は大軍(今川の総力をあげて)を催し尾張になぜ侵攻したのか、一番納得できる考えは、鳴海・大高両城の後詰である。尾張、三河国境付近を今川領に取り込み、信長の本城である清州城を狙う拠点とする(p143)

・上野甘楽郡(三万石)は小幡藩と呼ばれるが、織田信長次男の信雄(かつて100万石)は淀殿の縁(従兄弟)で秀頼につかえて大阪城内にいたが、冬の陣の直前に城を出たので、家康に大名に取り立てられた(p162)

・大坂夏の陣で、天王寺・岡山の戦いにおいて、家康本陣を守るように位置していた、本多隊・小笠原隊は真田幸村・毛利勝永らの猛攻にさらされる。小笠原隊はほぼ壊滅(当主忠なが戦死)、本多隊も分家筋の忠朝が戦死、小笠総力原家は播磨・明石10万石へ加増、そして豊前小倉15万石へ躍進して明治維新まで続く、本多家は播磨・姫路15万石に加増(p182)

・忠節無比の三河武士とは、物語に過ぎないのではないか。駿府という都会育ちの青年家康は、困り果てたと思われる。将軍の座を退いてから、家康は岡崎に帰っていない、家康にとっての故郷は駿府であり岡崎ではない(p186)

・花押とは実名の代わり、花押を用いる以前は自分の名前をくずして草書で書いていた、これを草名(そうみょう)という。なので、実名プラス花押という組み合わせは無い。(p231)

2019年7月21日