・同盟とは破られるために結ぶようなものであった、そうしたなかなので、信長と家康の同盟が破られることなく続いたことは非常に稀といえる(p26)
・藤原氏は、娘を天皇の家に送り込み、天皇の母方の祖父・叔父として、摂政・関白となる。院政は、天皇の父方の祖父・父親が上皇となって権力を掌握しようとする(p38)
・日本は地位に権限もともなわなければ、責任もとのなわれない国と言える。これが日本が戦後に軍事裁判で天皇の退位・財産没収がなかったことにつながる(p40)
・一般の庶民が抵抗する事態としては、一向宗による宗教戦争の形を借りて現れた、武士たちの支配を受け付けず庶民たちは自立を目指した。一向宗は現在でいうところの「平等」に一番近い概念を持っていた(p50)
・応仁の乱が行われていた1479年(室町・文明11年)、密懐法(びっかいほう)によれば、間男は殺しても罪にならない、という画期的は法律が下っている。前提は、自分の妻をてにかけた上というもの。間男を殺しても妻の敵討ちにあたり、慣習法的に正当理由が認められるというもの(p80)
・敵討ち(江戸時代には、届けを出して、公的な手順を踏めば公認された)は赤穂浪士の場合はそれに当てはまらまい。家来が主人の敵を討つケースは含まれないから。敵討ちとは、自分の父・兄など、あくまでも自分の尊属の敵を討つもの(p83)
・中央政府の中に「令外官」が多い、摂政・関白が律令の規定にない、内大臣・中納言・参議(中納言の下)、あるのは、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言(p91)
・承久の乱までの朝廷であれば皆が税金を払っていたが、幕府に負けたので税金が集まらなくなった、そして後鳥羽上皇の名前で、自前の軍事力をもたない、と宣言した(p96,101)
・官人(中位貴族より下)には、4つの学問分野があった、明経道(みょうぎょうどう・儒学)、文章道(もんじょうどう・文学歴史学)、算道(さんどう・勘定)、明法道(みょうほうどう・法)である(p99)
・養和の大飢饉(1181)は、西日本(普段は気候が温暖で先進地域)を襲い、東日本はそれほどでもなかった、東国に基盤を置く源氏は遠征軍を編成できたが、京都の平家軍は難しかった(p113)
・戦国時代、1万人規模の兵隊を1か月動かすとなると、現在価値で1億円以上かかる、戦争とはまさに経済行為である(p137)
・ジャックウェルチは言っている、能力もなく目的も共有していない社員をリストラするのは当然として、能力はあるけどビジョンは共有していない社員と、能力に欠けてもビジョンを共有している社員、選ぶのは後者である(p139)
・南北朝あたりから集団戦が始まっているので武器の変化もある、この時期に薙刀(なぎなた)が使われなくなり、槍が登場してくる。集団戦において薙刀は味方を切ってしまうので(p145)
・東国国家論では、源頼朝が鎌倉につくった鎌倉政権は、天皇が治めている西国と並ぶもうひとつの国家と考える。将軍はあい並ぶ存在で二つの国家があったとする(p184)これをさらに演繹させると、北には平泉の藤原政権があったとも考えられる、馬と純度の高い金が採れた(p185)
・室町幕府は、反幕府勢力である山名一族の力を大きく削いで、商業都市京都の課税権を本格的に手に入れた、自分たちの出身である関東・東北地方を切り離して、鎌倉公方(関東管領の補佐)が面倒を見ることになる。南朝が消滅した1393年に室町幕府が誕生したと言ってもよい(p238)