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世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか (NHK出版新書 601)

世襲の日本史 「階級社会」はいかに生まれたか (NHK出版新書 601)の写真

・地位より人、人というのは血、いや血より家」これが日本の大原則であった(p4)

・源頼朝は、征夷大将軍の宣下から2年ほどで将軍職を返上している、将軍職でなくても頼朝の力は低下しなかった。死去するまで、武家の第一人者として権威と権力を維持し続けた(p19)

・後三条天皇は170年振り(1068)に現れた、母親が藤原氏ではない、天皇であった。摂関政治(藤原氏の男性が、天皇に自分の娘を娶せる、その子供を次の天皇にする、子供の天皇をお祖父さんである男性が摂政となり政治を行う)が揺らぐことになった(p47)

・院政が始まったことで、古代が終わり中世が始まったとされる、院政期における上皇が「公地公民」という律令制の根本的建前を摂関家以上に踏みにじり、半ば公然と荘園を皇室の下に集めたことにある。その手法は、六勝寺(寺の名前に「勝」のつく寺、皇室が建てた)をトンネル会社のように使い、これらの寺が寄進を受ける形で皇室領を拡大するというもの、これにより律令制が終わり、荘園・公領制が始まる(p52)

・持統天皇は、天智8年(669)以来、32年振りに遣唐使を派遣している、この時、日本は中国に対して初めて「日本」という国号を使用している(p61)

・公家の頂点に位置するのが、近衛家、藤原本家から、近衛家・九条家、近衛家からの分家が、鷹司家、九条家からの分家が、二条家・一条家(p87)

・島津忠久は島津家の初代であるが、頼朝のご落胤であるということで、島津家は江戸時代を通して「源」を名乗っている(p92)

・日本の仏教界で高い地位に就くのは、俗界で身分の高い家の出身者に限られる、出身の「家」が大事なのであって、僧としての地位は二の次、つまり実力も二の次(p98)

・天台宗では、最澄がなくなった後、弟子が唐に渡って天台宗を完成させた、天台の密教ということで「台蜜」という、密教の先駆者である真言衆のほうは、京都の東寺の密教ということで「東蜜」と呼ばれる。真言宗の本山は高野山金剛峰寺だが、京都の貴族にとっては遠いので、東寺が真言宗の中心とされた(p103)

・鎌倉新仏教(時宗、日蓮宗、禅宗、浄土宗)が高く評価されてきた、しかしこれらは、天台・真言宗からの分派である。しかし、両者とも顕教よりは密教であった(p105)

・皇室などのやんごとなき世界の方々は、激しい修行はできないので、京都の町中に院家といわれるものがつくられ、そこで僧侶になる。そこの院主たちが日本仏教世界の上位に君臨する。院家で有力なものを「門跡」というが、比叡山延暦寺系の三門跡では、青蓮院・妙法院(三十三間堂を傘下)・梶井(三千院)がある(p107)

・北条家は、長時・時村、のような北条エリートを執権の座につけながら、得宗(本家の当主)であ北条時頼が実験を取る形を取り始める。つまり、執権という「地位」よりも得宗に権力が変更された(p115)

・ツリー構造のポイントは、一人の主人は複数の家来を持つけれど、一人の家来は必ず一人の主人しか持てない。これに対して「リゾーム」は、多対多の横の関係で結びついたネットワーク構造となる(p141)

・鎌倉幕府の勝利で終わった承久の乱の後、朝廷は態度を改めた、寺の僧レベル(一般人は対象外)の訴えは対応するというもの、そして人材を抜擢する、その代わりに税を払ってくれと要求する(p146)

・後続の下に、摂関系、大臣家、羽林家(大納言にまでなれる、大臣になれない、ここまでが上級貴族)、名家(中納言まで、中級貴族)(p147)

・地位を重視していない日本では、中国と異なり責任を取る必要がないので、トップが死ぬ必要はない。鎌倉幕府の最後の将軍である、守邦親王、室町幕府15代将軍の足利義昭、徳川幕府15代将軍の徳川慶喜、に共通する(p177)

・明治政府とは、日本史上では初めて、個人の才能に賭けた政権であった、そして明治の元勲は、自分の地位を子孫に世襲することは行わなかった、個人の財産のみ(p190)

・天候や風土が厳しい地域では、生き残っていくために厳しいリーダーの選抜が必要になる、だから世襲はなかなか起きない(p194)