・東国には武家による独立政権を作ろうとしていた、中央とは一線を画す独立の精神が根付いていた、その証拠に、北条氏家が誕生する少し前の、古河公方・足利成氏は朝廷とは異なる年号を使用している。それは中央の支配に服さないことを意味した(p33)戦国武将は誰もが上洛を目指していたわけではない(p34
。北条氏綱は、姓を伊勢から「北条」に改めた、鎌倉幕府の執権・北条氏を意識したもので、関東の支配を視野に入れたものであった。(p36)この志を継承したのは、徳川家康である。家康は撫民政策など氏康の政策をよく踏襲し、見事に統治した。そしてその政策を全国に広げていった(p41)
・信玄は一度決めても「不適切だ」と思ったら、柔軟に直した、これは分国法に限った話ではなく、情勢を見て機敏に対応するところは、同時代の他の誰の武将よりも優れている(p44)信長にとって、信玄は他の同盟者(家康=東の防波堤、浅井長政=西に進む支援者)とは異なり、戦いを避けたい相手でアタ(p45)
・何か起きた場合、選択肢はいくつもあった方がいい、そうした選択肢を準備しておくことは、危機管理能力そのものである(p52)
・関ヶ原の戦いでは、西軍に与した大名のうち、改易(88人=416万石)、減封処分(5人=216万石)統計632万石の石高が家康の事由となった。家康の所領(250)を合計400万石とした。譜代・親藩の数を増やし、関東・東海・畿内の要地においた、外様大名に対しては、加増したが僻地に追いやっている(p85)
・徳川政権の営業所にあたる中で一番重要だったのは、京都所司代である。役割は、1)京都の護衛、2)禁中公家の監視及び連絡、幕府と調停の窓口、3)京都町奉行・奈良奉行・伏見奉行を統括、京都周辺の8箇所の天領の訴訟処理、4)西国外様大名の監視であった(p91)幕府直轄の要地には遠国奉行が置かれた、大阪・京都・駿府などの町奉行、伏見・長崎・山田(伊勢山田)・日光・奈良・堺・佐渡・下田・浦賀・函館・新潟である(p91)
・東軍に寝返った武将でも、事前に家康と胃を通じていた小早川秀秋、脇坂安治らは所領安堵されているが、それなしに寝返った、赤座直保、小川祐忠は改易されている(p152)
・大阪の陣は日本史において2つの意味があった、1)この戦いにより、平和な時代が訪れた、2)江戸時代の武士に「武士とは何か」を伝える契機となった。敗れたとはいえ、大坂方の戦いぶりは見事であった、家康の本陣が崩れたのは、三方原以来であると「三河物語」には記されている(p163)
・織田信長が印判状に用いた朱印の印文『天下布武」は、武力で天下をとってやろう、ではなく「武家による天下統一」であり、公家・寺家を政権から外すというものであった(p181)
・秀吉が台頭するまでは、東北の伊達氏、四国は長宗我部氏、九州は島津氏、関東は北条氏が覇権を握っていた、だから天下統一ではなく、地方政権が分立する状態になってもおかしくなかった(p197)
・破れ去りし者に共通する要因、1)情報の不足、2)親子の意見対立、3)自信過剰、4)プライドへの固執、5)味方作りの失敗、である(p〜198)
・三成が率いる石田家家臣団は、関ヶ原で破れ去ったが、戦場では大いに奮戦し、劣勢になってもなかなか崩れることなく西軍の意地を見せた。それは、三成の持っている理想や、彼の掲げる大義を家臣たちが信じることができたからであろう。部下が共感し、その人について行こうと思える理想や大義を持つこと、組織を率いるリーダーにはそれが求められるのではないか。(p210)