・初期ヤマト王権における大王は、専制君主でなく、諸国の勢力を束ねる盟主といった側面が強い、奈良県の勢力と九州北部の勢力を中心とする連合国家だった。なぜ奈良県の勢力が盟主となったのか、理由の一つは、奈良盆地が周辺地域から隔絶した地で風水害が少ない、中心には大和川、周囲の山は日の出や日の入りの位置から天然のカレンダーの役割があり、安定した稲作を行えた。九州北部は外部の影響を受けやすく紛争が起きやすかった(p19)
・四天王とは仏教を守護する神で、持国天・増長天・広目天・多聞天である(p30)
・大海人皇子は、美濃国にある直轄領・湯沐村(大垣市あたり)に近い要衝である不破道(関ヶ原)を封鎖、東国への出入り口である鈴鹿道も封鎖したので、大海人軍より数で勝る近江軍に対して、交通の要衝地を抑えることで、包囲殲滅されるリスクを排除した(p1035)
・持統天皇は、飛鳥浄御原宮から、藤原京へ遷都した、藤原京は飛鳥の北方、のちに作られる平城京の南方に位置し、北・東(香具山)・西に山に囲まれていて、風水の理想形とされる「三閉南開」の地に該当することから、藤原京の場所は、風水や神仙の理想に基づいて決められたとみられる(p40)
・義経が後白河法皇から左衛門少尉と検非違使に任じられた(勝手に任官を受けて問題とされていた件)のは、頼朝が義経に反乱の首謀者の一人である平信廉の捜索を命じていた最中であった、範頼が平氏追討のために西国に向かっていて、さらに義経も出陣すると京の治安維持が保たれなくなる恐れがあるので、法皇は義経の西国出陣を引き留め、任官となったのである。この任官はやむなしと考えるのが妥当であろう(p78)
・元寇において、元軍は対馬に拠点を置かなかった、河川や平野に恵まれず水田が広げられず、大勢の兵士を駐留させるための食料確保が難しかった、日本側は補給路が充実していたので、元軍の守備兵はすぐに日本軍に蹴散らされた可能性が高いのが理由。(p91)
・後醍醐天皇は吉野を南朝として選んだのは、山岳地帯における流通、交易、信仰の拠点として北の京とは一線を画した地位を築いていた。吉野周辺には、東大寺・金剛峯寺・熊野三山(本宮、速玉、那智)高野山もある(p95)
・室町幕府が京都に置かれた背景には、三種の神器を奉じて京を脱し、吉野に新たな調停(南朝)を開いた後醍醐天皇の存在がある、北陸には新田義貞の勢力もあった、南朝方が京に入り、北朝方の天皇が廃位されれば、尊氏は大きな後ろ盾を失ってしまうから(p100)
・室町時代は畠山氏が紀州の守護を務めたが、宗教勢力が入り組んで存在していたのでその支配は限定的であった。中世の寺領は朝廷も幕府も無断で入ることができず、一種の聖域の状態になって徴税権も及ばないので、商工業が発達し、高野山や根来寺も強い経済力を有する「境内都市」として発達した(p115)
・地形を有利に活かした防御陣地を構築した西軍であったが、重要拠点(南宮山、松尾山城)が東軍に寝返ったので、地形の有利はそのまま東軍へ移った(p129)
・家康が江戸に幕府を開いたのも、大阪に豊臣家が隠然と存在していたのが大きかった、東は徳川、西は豊臣が治める、という東西分有の考えがあったと言われる。秀頼には関白就任の可能性もあった(p136)
・なぜ徳川御三家は、尾張・紀州・水戸に配置されたか、水戸は、石高3位の仙台藩をはじめ東北の外様大名に対する防衛拠点、尾張は、江戸と上方を結ぶ東海道が通る要衝地、西国の外様大名の防衛拠点、紀州は、本州最南端で西国から江戸へ向かう際の海路の要衝地(p149)
・徳川にとって吉良は因縁の相手であったがそれでも重用されたのは、吉良家に朝廷との深いパイプがあったから、綱吉の母・桂昌院の従一位叙任に必要であった、元禄15年に叙されると、吉良家は用済みになり、本所へ屋敷替えとなった、その後、吉良上野介の子、義周は諏訪藩お預けとなり、高家としての吉良家は断絶した(p155)
・幕府は未開地の横浜も「神奈川」の一部と主張して整備して、列強を認めさせた。横浜を居留地に選んだのは、周辺に野毛山・山手の丘があり、外部から目につきにくい場所で、人の往来のコントロールできる場所、幕府は神奈川湊に台場(砲台)を築いた、これは横浜港に停泊する外国船対策であった、東海道が通っておらず、神奈川宿を抜けると西につながる、横浜港から上陸した外国兵に対して迎撃できる(p173)
・幕府側の会津藩(京都守護職)と桑名藩(京都所司代)は戦わずして二条城を撤退した(p180)
・榎本らが函館を本拠地にしたのは、制海権は函館政権が握っていたことと、幕末に開港された一つなので、各国の領事館(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、イタリア、プロイセン)があり、彼らは局外中立を取っていた(p193)