・河越合戦の結果は関東の政治秩序と勢力図を一変させた、関東公方と関東管領はそれまでの権力と権威を失墜させ、逆に北条氏は関東制圧のきっかけを掴んだ(p32)
・桶狭間の戦いにおける今川義元の行動は、自らが後詰となって鳴海・大高両城の包囲を説くことであったことは間違いない、最重要目的は鳴海よりは小さい大高城であった、伊勢湾に面していた封鎖されにくく信長の勢力下から遠いこともあったのだろう(p56)
・信長の戦い方は前半生(美濃制圧)と後半生では異なる、稲生の戦い、村木砦の戦い、桶狭間の戦いでは自分が兵力的に劣勢であるにもかからわらず若者たちのモチベーションの高さを頼みとした戦い方で窮地を脱した、後半は兵力優勢とする横綱相撲となる(p63)
・義元は桶狭間山に登り酒宴を開いていたが、高根山の峠に殿軍を残してきており、そこで殿軍が頑張れば義元が逃走する時間を作れる、それを知ったの信長は長坂道を上がらず高根山を迂回し、北から桶狭間山に攻め上がった、簗田政綱がこの迂回路を知っていたので、それが戦後に「功第一」とされたと思われる(p68)
・大前提として戦国時代は慢性的な飢餓の時代であることを忘れてはいけない、中世の日本は冬の終わりから夏までの端境期に飢餓が訪れ人が死んでいく時代であった、それが克服できない時には、農地を捨てて流民となるか、野盗と化して略奪行為に走るか、領域支配者を頼るしかない。頼るとは、足軽小者といった底辺の地位で家中に組み込まれ、その領域拡大戦争に参加すること(p104)信玄が当主になって気づいたのは、甲斐国の人々を飢えさせないためには侵略しかないということ、結局、信虎の方針を踏襲することになる(p105)
・清洲会議の後、秀吉は日本の中枢部を抑えた、石高では267万石の秀吉に対して、勝家は188万石であった、動員兵力は、秀吉8万に対して、勝家は5万6千程度(p181)
・愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶとは、経験から学べることには限りがあり、そこから学ぶ者は失敗することが多い。しかし歴史には膨大な教訓が残されており、そこから学ぶものは失敗を回避できるかもしれない、と言いたかったのだろう(p290)
2022年8月17日読了