・応仁の乱の時代の、細川家・山名家に共通しているのは、将軍家を凌ぐ財力、勢力を持っていたということ、将軍家はお飾りに過ぎなかった、お金の流れからみた場合、これこそが戦国時代が生じた最大の原因である(p18)多額の資金を準備できなくなった室町幕府は、日明貿易の権利をバラ売りするようになった(=勘合符1枚:300貫)(p21)
・室町時代の南北朝時代において足利政権で揉め事が起きると反対勢力になった者がすぐに下野して南朝に加担するということが多発した、そのため足利政権は存在基盤を安定させるために、将軍家の直轄領を削って家臣と引きつけた、鎌倉幕府よりもかなり少なかったと見られる(p23)
・武家とは、国の土地や荘園を無法に占拠し武装して無理やり我が物にしてきた者たちである、それを正式に認めたのが鎌倉幕府である、それを認めたので武家の世の中が生まれた(p33)
・楽市楽座は「日本の流通に大きな影響を与えた」ものであり、価格破壊を引き起こし、流通革命にまで発展した。加納、安土、金森で楽市楽座を行った、京都では流石に既存商人の反発もあり楽市楽座はできなかった(p77)
・甲斐武田領は、農作物の出来に関係なく、毎年一定の税収を確保できる「棟別役=田畑でなく家屋や家族に課税」を税の柱に据えた(p93)基本的に大名は直轄領からしか税を得られないが、棟別銭は、直轄領、非直轄領、さらには武田信虎の代からは、それまで年貢が免除されていた寺や神社まで課せられた(p94)戦国最強と言われた武田軍団は農民の過酷な税負担によって維持されていた(p100)
・武田信玄は晩年、100万石近い領地を有していた、その大半は「桶狭間の戦い」以来、今川家の領土だった、関東・東海地方に攻め込んで切り取ったもの、桶狭間の戦いは、関東・東海の勢力を大きく塗り替えるきっかけとなった(p109)
・海洋貿易の港は日本にいくつかあったが、最東に位置しているのが「堺」であった、堺より東には海外貿易船は入ってこない、東日本の大名にとって、堺は生命線とも言える港だった(p117)堺は、1419年領主である、相国寺・崇寿員から「地下請=年貢収入を請け負う代わりに自治権を得る」であった(p118)1568年に、信長は畿内5カ国を収める管領の要請を断り、堺・大津(京都から琵琶湖への玄関口)・草津(京都から北陸に行く時の通過点)に代官を置くことを足利将軍に願い出た(p119)
・信玄が元亀3(1572)に京都へ入れなかった理由は、経済的な理由から装備が不十分だったと考えられる。人数の多さで押し切ることができる夜戦ならともかく、鉄砲・火薬など多くの兵器を必要とする攻撃戦の場合は、装備の不足が如実にあらわれる、野田城の攻略に1ヶ月もかかった理由であり、京都まで進軍できなかった理由である(p133)
・室町時代から戦国時代前半にかけて、日本の資産の大半は寺社が所有していた、比叡山の荘園の数は285箇所(p152)大和(奈良県)は寺社の領地が多く、室町幕府が代官を置けない地域であった(p154)当時の8大財閥は、大山崎・堺(自治都市)、青蓮院、比叡山三塔、山門私節(以上3つは比叡山延暦寺関連)、細川高国、大内義興、興福寺(p155)
・当時、酒(比叡山)、織物(祇園社)、麹(北野社)油(南禅寺)が大きなシェアを持っていた、朝廷や幕府に働きかけて独占販売権を入手したり、座をつくって他業者を締め出していた(p161)
・太閤検地のとき、近江国は78万石で、陸奥に次いで全国2位であった、免責比から見ればダントツで近江が豊穣であった、百済などから先進技術が入り、交通の便もよく、南北朝時代にすでに「市」の数が18に達していて日本一の商業地であった(p169)
・越後にある柏崎・直江津の2つの港は日本海に面した重要な港であり、関税収入は年間4万貫(=30万石の年貢収入)があった、上杉謙信は実際の領地に加えて、土佐藩に相当する税収があった、さらには、金山・特産品(麻織物)もあった(p190)
・信長の直轄領が少なかったのは、家臣に割り振っていた所領は「与えた」のではなく「管理させている」に過ぎなかった(p221)実質的には信長の直轄地だった可能性が高い、こうした「土地に対する考え方」は当時の武士の価値観を根底から覆すものであった(p222)
・中せの日本では銅銭による貨幣経済がかなり進んでいて、租税はコメで納める方法から、銅銭で納める方法にすでに代わっていた、田の広さに応じて銅銭の支払額を決める「貫高制」であった、しかし戦国時代になって明から銅銭が入ってこなくなったため、年貢のための銅銭の流通量が確保できなくなったので、信長は「石高制」に、1577年の越前検地から変更していったが、地域の実情に応じて貫高制に据え置いたところもあった、太閤検地はこの石高制を正式な制度として採用した(p249)
・徳川家康の1度目の飛躍は「桶狭間」人質状態から抜け出し三河国を平定し、信長と同盟(p267)本能寺、混乱に乗じて、甲斐・信濃に侵攻し、家康は5カ国の領主となった、秀吉のような派手さはないが、大大名としての基盤を築いた(p268)
・北条の小田原征伐でもっと功績があったのは、家康であった、秀吉は北条氏の旧領の大半(250万石、120万石からアップ)を与えた、秀吉は領地(220万石)からの収入と合わせて金銀山からの収入(石高換算で300万石)があったが、領地には経済力以外に「人」という資産もあった(p274)
・関ヶ原以前では、家康(250)と秀頼(220)は均衡していたが、関ヶ原以降では家康は400万石、2位の前田利長は120万石、徳川一族の版図は、800万石=当時の日本領土の25%であり、鎌倉・室町・豊臣に比べてはるかに財政基盤の強い政権であった(p279)
・家康は自分を支持した「教如」敵対した噂のある「准如」に対して、教如に本願寺を継がせる手もあったが、本願寺を分裂されておいて、両者に宗主を名乗らせた、両寺の正式名称は2つとも「本願寺」である、しかしわかりにくいので、東側に新しく作られた寺社を「東本願寺」元からある方を「西本願寺」と呼んだ(p298)
・家康は浪費を戒めて「大法馬金=金の大判2000枚=300kg」を作り、江戸時代前半には126個(=42トン)あった、現在日本銀行が保有する金が800トン(p299)