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summary

日本史の謎は地政学で解ける

日本史の謎は地政学で解けるの写真

・大陸を開拓してきた人々は、距離のこわさと、補給が生死を左右する仕組みを身に染みて理解しているので、1912年の「スコット南極探検隊」の極点からの帰路で全滅、旧日本軍が南方でおびただしく「餓死」するようなことは無いだろう(p5)

・なぜ、神武天皇は、四国の南側に沿って(瀬戸内海を通らずに太平洋経由)紀伊半島南部を目指さなかったのか、これは九州南部の日向灘からいまの静岡県が面する遠州灘にかけての南岸は、一度難破しなら生還が期し難い、舟艇にとって恐ろしい海域であるから。恒常風の西風に、北風が加わり、沖合には強い海流(黒潮)がある(p15)

・鎌倉幕府は、当時の温暖気候に助けられて農業生産が急伸中だった「東国」に位置することが経済的に有利で、京都朝廷や自社の引力圏から離れるのも好都合であった、足利幕府は、吉野の南朝と、気候寒冷化で農業が復調化していた「西国」が「反政府」で結託することを封じるために京都で見張り続ける必要があった(p20)

・明治元年旧暦11月、最新鋭であった2800トンのオランダ製スクリュー式蒸気軍艦「開陽」ですら、日本海の海象には勝てず、江差海岸で全損している(p24)

・日本と朝鮮半島の関係が、けして「英国とフランス」のようにならなかったのは、ドーバー海峡が小舟でも漕ぎ渡ることが可能であったが、日本から半島へは、命がけの覚悟が求められた。畿内に首都を置いたのは国防のため、九州北部に首都を置いたら、列島は二つに分だされる(p30,31)

・日本が、京都は大阪を中心に栄えたのは、ひとえに淀川の存在が大であった、また瀬戸内海を「一本の運河」をすれば、淀川の下流域はその「ターミナル船着き場」と見ることができる(p33)

・海路遠征が距離をほとんど無視できるのに対して、陸路遠征は距離こそが死活的に重大な意味をもつ、三日分の食量しか携行していない歩兵を10日間強行軍させることは不可能、海路なら寝かせておけるし、食料を搭載した補給船団を随伴できる(p42)

・桓武天皇は、何百年も続くヤマト政権のエスタブリッシュメントが地権を抑えている奈良盆地ではなくて、渡来してまだ数世代しか経ていない、水田開発のしにくい暴れ川(淀川水系)にあえた地盤を切り開いていた、百済系新官僚グループを使って、長岡京、そして平安京(洪水リスクがより少ない)へ遷都した(p50、52)

・頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、砂金を産出したうえに、気候温暖化で農業経済が絶好調だった、平泉の奥州藤原氏対策であった。人口は京都に次いだほどであった(p56)

・三種の神器が南朝(吉野)から北朝(京都)へ移譲され、南北朝の動乱収拾が見えた1392年は、1200年までの温暖期が嘘のように、中緯度諸国の気候が関連化して久しかったので、奥州方面に強敵が出現する可能性はゼロと信じられた(p58)

・現代人の地理感覚では、安土のある琵琶湖東岸はとくに要地という印象を受けないが、東国からもたらされる人・モノ・金は、ほとんどこの土地を通過して京都に入る、東国の最前線である。(p63)

・ペリー艦隊は、偶然にも江戸湾の入り口を塞いでしまったことで、江戸幕府に「内陸での持久戦に訴えてでも撃退しよう」という考えを捨てさせた(p75)

・新政府は、天皇や朝廷を一体であり、徳川幕府にも実行不能であった関東行幸をさせることもできる、更には、新政府は旧江戸幕府の全対外債務を東京で継承する、ということで江戸市民・外国人を満足させた(p78)

・新政府は「遷都」という言葉をつかえず、「奠都(遷すのではなく、新たな都をもうひとつ定める」と公称した、現在まで、正式な詔・国の法令によっても、わが国の首都は東京、と定義されたことは一度もない(p80)

・かつて畑作中心であった東国、とくに東北地方を中央(西国)へと服従させたのは、結果として稲作の普及であった(p94)

・毛利氏は、石見銀山の採掘権は幕府に取り上げらたが、防長一円の良港の利用税利権・海峡支配権は従来通り安堵された、これは瀬戸内物流ハイウェイの通行料収入をプレゼントされたようなもの、なので密貿易は不要であった(p121)