・欧州は2つの条約(ヴェルダン・メルセン条約、843、870)によって、フランク王国から、東フランク・西フランク・イタリアの3つの国ができた(p29)
・菅原道真は自分が遣唐大使に任命された時に、あえて拒否することで遣唐使そのものを廃止しようとした、この意見を取り入れた宇多天皇の決断も素晴らしい(p34)世界史の正体はユーラシア大陸での殺し合いの歴史である、そんな世界に幕末のペリー来航あたりまで関わらなくて済んだのは菅原道真の決断のおかげ(p36)
・ローマ教皇ヨハネス2世がローマで、962年、東フランク王・イタリア王のオットー1世にローマ皇帝の冠を授けた、ローマ教皇による戴冠は、ローマ皇帝が誕生、同時に西ローマ帝国も復活した瞬間でもある(p43)
・平将門は日本の三大怨霊に挙げられる、後の二人は、菅原道真、崇徳天皇である(p37)
・71代後三条天皇(1068即位)がそれまでの天皇と異なるのは、生母が皇女であり藤原氏の娘でないということ、藤原氏後三条天皇の外戚ではなくなり、権力を振るえる立場ではなくなった(p78)
・1054年、ビザンチン皇帝(東ローマ帝国)と、ローマ教皇(西ローマ帝国)がお互いに破門しあったので、東西の教会は決裂した、これより東のコンスタンチノープルは、ギリシア正教となり、西のローマ教会は、ローマ=カトリック協会となった。相互和解は1965年であるが、今も別れたままである(p96)
・後白河天皇即位の翌年(1156)、鳥羽法皇が崩御、崇徳上皇は確執のあった父の崩御を機に後白河天皇と武力でぶつかる、これが保元の乱、後白河側が勝ち、崇徳上皇は讃岐国に配流となり最期を迎えた、そして怨霊となった(p105)
・フランス育ちのイングランド王リチャード1世について「英語がろくに話せなかった」と書かれることがある、当時の支配階級はフランス語を話し、正式文書はラテン語で書かれていた、一段も二段も低く見られた英語など話せなくても困ることはなかった(p115)
・東ローマ帝国は滅び、西ローマ帝国もとっくに滅んでいたので、ローマ教皇だけが残った、五大幹部の一人に過ぎなかったローマ教皇が、ビザンチン帝国が滅んだ瞬間に大首領になった。そして、ペテロ、パウロの時代以来、ローマ教皇は大幹部で大首領だったと歴史を書き換えた、いまだにそれを誰も正せていない(p136)
・フリードリッヒ2世がせっかくイエルサレムを取り返したのに、その後の十字軍はダメで、最後はムルマーク朝にアッコンも落とされてイエエルサレム王国は1291年に終わった、結局、欧州はオリエントに勝てなかった、それが十字軍である、そうしている間に東からモンゴル帝国が勢力を伸ばした(p150)
・フビライが1271年、五代目のハンとなり、国号を元と改めた、この時モンゴル帝国は大きく4つに分かれた、分裂した4つは、フビライの元(チャイナ部分)チャガタイ・ハン国(中央アジア)キプチャク・ハン国(ロシア))イル・ハン国(イラン高原)である(p164)
・1270年、朝廷から迎えた皇族の将軍、惟康王に源の姓を賜る、鎌倉幕府四人目の源氏将軍が誕生した、これもモンゴルと戦うための準備の一環で、鎌倉幕府は国策として軍事を最優先させる軍国主義を取ることを示した(p180)
・文永の役に於いて、モンゴル軍は日本軍が思いの外手強いので、沖合に停泊させた船に引き揚げた、一夜開けてみるとモンゴル軍が船ごと消えていた、モンゴルも日本と同じように(日本は負けたと思い、太宰府まで引き返した)負けたと思って撤退している最中に暴風雨に見舞われ船の多くが沈んだ(p184)日本以外でモンゴルに勝利したのは、エジプト・ムルマーク朝とベトナムなどがある(p201)
・1254年、ホラント伯ウィレム2世が公文書に国号を「神聖ローマ帝国」と署名した最初の皇帝である、西ローマ帝国がオットーの戴冠で復活したとき(962)から300年の時をかけて、神聖ローマ帝国と正式に名乗った、この時以来その名称が定着した(p206)
・1333年、鎌倉幕府が倒され後醍醐天皇の親政が行われたがうまくいかない、足利尊氏が反旗を翻し、別に天皇を立てたのが「北朝」である、京都の北朝を認めない後醍醐天皇は、吉野(奈良県)に南朝を打ち立てた(p215)
・元は明に滅ぼされていない、元のモンゴル人はモンゴル高原に戻っていっただけで、北元を建てた、しかも北元は明などとは比べ物にならないくらい強い国であった(p232)
・金閣の鳳凰は、足利義満自身である、公家(一階・寝殿造)武家(二階・武家造)中華(三階・禅宗仏殿造)すべての上に立つ鳳凰が義満とあれば「俺は世紀末覇者」だと宣言しているようなもの(p262)
・ローマ・カトリックの頂点であるローマ教皇が二人いる異常な事態が発生し、この分裂状態が40年(1371-1417)続いた、これが教皇大分裂時代である。そうしたところに起こったのが、宗教改革である、イングランドで、ジョン・ウィクリフトいう人が先陣を切った(p287)ウィクリフ、フスなどのカトリックに対するプロテスト(抗議)があって、その後ルターが登場する(p289)プロテスタントは、人間に自由意志などない、と主張している(p299)
・1494年、トリデシリャス条約によりスペインとポルトガルは全世界に出て行った、日本の岡山県付近に、その教皇子午線があったので、スペインとポルトガルが日本へやってきた(p303)
・京都三千院は天台宗比叡山延暦寺の三大門跡(皇族、公家が住職を務める)の1つである、他は、青蓮院、妙法院である(p309)
・室町幕府は応仁の乱から義昭が亡くなるまで100年間も保った、義教が整備した官僚機構がずっと残っていたから、室町時代に、細川・三好・松永・織田など有力者がいくら現れても、官僚機構を味方につけなければ天下を取ったことにならないというくらい強固な官僚制であった(p318)
・参勤交代といえば徳川三代将軍・家光が有名だが、制度化したのは足利義教であった、大毛は京都にいる間は逆らえば殺すぞと将軍に締め付けられるが、大名としての権威は認めてもらえた(p320)
・足利義教は将軍在職中の13年間で、青森から琉球までの日本を統一した、日本列島に琉球がプラスされて、日本になったのが嘉吉元年(1441)義教が島津に琉球を与えた、この時に明は抗議をしていない(p325)
・オスマン帝国のことを、欧州が束になっても敵わない、というのは、ニコポリス十字軍の編成を見ると、神聖ローマ帝国・フランス・イングランド・スコットランド・ボヘミア・ポーランド・イタリア・スイス・ハンガリーであった(p367)オスマン帝国はトルコ共和国に代わられう1922年まで続いた(p371)