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戦国武将の脳 乱世を勝ちぬくブレインパワー

戦国武将の脳 乱世を勝ちぬくブレインパワーの写真

・信長の祖父の信定は、津島一の豪商の娘をもらっている、当時の武士としては初めて商人との縁組を行った(p17)
・信定は、米収の多寡で物事の価値判断をせずに、商業利得・権益を重んじた(p17)

・脳内の神経回路の発達にとって大切なシナプス(神経細胞同士を結ぶもの)は、5~10歳までに急速に発達する、この時期にどのうな教育をうけたかが、その人の考え方を左右する(p21)

・信長は堺商人に矢銭として、2万貫(1貫=4000文、1文=180円程度として、144憶円程度)を要求した(p46)
・信長は現地徴発(略奪等)をしなかったので、非常に情報が入りやすかった、家康も同様、この点は信玄とことなる(p56)

・独創的な神経回路を発達させるには、身近にメモを置き、気がついたら書き取る癖をつけると良い(p68)
・本能寺の下は火薬庫だったので、大爆発することで信長の死体は見つからなかったのか(p75)

・信長の時代、鉄砲1挺が米15石もした、足軽の給料(1日5合)で計算すると、15石は足軽7人程度雇える(p81)
・常に楽観的にモノゴトを考えるようになるには、運動をするのが良い(p88)

・共感脳をつくるためには、まず人の話をしっかりと聞くこと、それにはいつもその人の目を見つめることである(p94)
・仕事においては、熟考したとしても、決断にはあまり時間をかけるべきではない、いつもデッドラインを決めて自分を追い込んでおく(p105)

・戦国時代の1貫は11石相当(江戸時代は2石程度)なので、明智光秀が浅井に使えた時の禄高(500貫)は、5500石にも相当する(p109)
・認知症になりやすい病気として、糖尿病・高血圧・高脂血症の3つである、治療の原則は、運動と食生活であり、薬は最後の手段(p127)

・関ヶ原の戦いにおいて、家康には3つの危機があった、1)三成が大垣城に篭城すれば長期戦、2)合戦前日に大津城落城、あと2日あれば立花宗茂が到着、3)丹後田辺城も落城、小野木(1.5万)も2,3日で到着(p157)

・関ヶ原の戦い時の家康部隊(3万)は旗本であり戦闘部隊でない、単なる防衛部隊、集団での戦闘行動をする訓練をされていない、実戦部隊として活躍できるのは、井伊直政と四男松平忠吉の6000のみ(p165)

・普通の軍団は、兵隊7,8人に対して馬1頭、それが武田の場合は、2.5人に対して1頭であり騎馬軍団といえる(p197)
・合気道の達人は小男が多く、筋肉や骨の大きさ強さよりも、それを動かす脳の働きのほうが重要であることを示している(p202)

・武田等がなぜ、略奪・強盗・暴行を戦争時に黙認したかは、普段は農作業をしている農民を農閑期に出陣させるためには、それを褒美にするしかなかった(p209)

・信玄死後に勝頼が付近の城を征服しているのは、当時の領地(120万石)の半分程度を穴山梅雪を中心にして分割すべきだという意見がでていたため(p214)

・謙信時代には、から麻という衣服の材料で34万石の収入、越後の高根金山、上田銀山、佐渡の西三河金山等を所有しており、戦国大名一番の金持ちであった(p226)
・謙信は100回以上の野戦において、つねに先頭に立って戦った、大将が13段の陣形の中の11段くらいにいるのと比べると対照的(p231)

・直感力を手に入れるには、瞑想を習慣化したり、直感的にモノを見つめる訓練が必要、何かを決断する際には、直感的に結論を導きだすことがポイント(p238)
・仕事においても、小さな成功を積み重ねて、勝ちグセをつけることがポイント(p264)

・伊達政宗が簡単に秀吉に屈することをしなかったのは、自分の100万石に加えて、茨城あたりに佐竹(100万石)、北条の300万石で合計すれば、まだ戦えると考えた(p268)

・太平洋戦争中、シンガポールにはイギリス軍はじめ連合軍が8万人以上いたのに、それを日本軍3万人程度で陥落させた、インドネシアのバンドン要塞にいたオランダ軍8万人を、三千人で陥落させた(p276)

・信長は、先見性と残虐性が特徴、先見性は頭頂葉と前頭葉、残虐性は前頭前野のはたらき欠落による、秀吉の決断の速さは、基底核とよばれる脳構造、家康の忍耐強さは、前頭前野のはたらき、謙信の宗教的な特徴は、前頭葉と海馬が関係している(p285)