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幕末・明治維新が10倍面白くなる人物伝 雑学おどろき日本史 (ワイド新書)

幕末・明治維新が10倍面白くなる人物伝 雑学おどろき日本史 (ワイド新書)の写真

・江戸末期の頃、北町奉行所は千代田区呉服橋辺り、南町奉行所は中央区数寄屋橋辺りにあった、奉行を補佐する与力(200石)は25人ずつ、同心が130人ずつ、同心の下に、目明しや岡っ引(無給)がいた(p15)

・ペリーは、香港経由で琉球に訪れてから浦賀に来た、琉球は薩摩藩の支配下であったが、密かに清国とも主従関係を締結していた(p33)

・琉球王国では、清国や薩摩の使者を楽しませるために、学問はもとより茶道、音楽などの芸能をたしなむことを奨励された(p36)

・徳川慶喜は、代々伝わる家康の秘密の遺言書を見ていたので、鳥羽伏見の戦いにおいて錦旗を見て、朝敵になってはいけないと思って逃げた可能性あり(p43)

・ペリーは琉米修好条約を締結した後に、記念として沖縄から梵鐘を持ち帰り、それはアナポリス海軍士官学校の庭にあった、変漢されたのは130年後の1987年のこと(p46)

・日本が不平等条約を締結してしまったのは、懸案の貿易方式(長崎の出島方式か自由貿易か)に目がいっていて、その他の項目について考慮するゆとりがなかったから(p48)

・茨城県における「先走り損」は、1)939年:平将門の乱、2)1936年:226事件、3)桜田門外の変、でありいずれも茨城県人が関係している(p61)

・孝明天皇が和宮降嫁を許した条件は攘夷であった、開国をとるか鎖国を続けるかの選択を迫った(p80)

・慶喜は攘夷実行を約束して、1863年5月10、23,26日に下関砲台から、アメリカ、仏、オランダに砲撃を加えた(p85)

・1867年10月14日に大政奉還をした後に、12月9日に明治天皇は、薩摩、安芸、越前、尾張等の藩兵とともにクーデター(王政復古の号令)を起こした(p107)

・鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕府軍は兵力の面では優っていたが、何のために戦うのかという目的意識と、優秀な指揮官に欠けていた(p111)

・古くからある国民の祝日は、1月1日(新年節)、2月11日(紀元節:神武天皇の即位日)、11月3日(天長節)、11月23日(新嘗祭:収穫祭)である(p119)

・明治の新政府ができるまで、あまりにも多くの血が流れて人材が枯渇した、有能な人材の消耗は勝者側に多かった、藩の庇護はなく狙われやすかった(p120)

・明治新政府は、天皇を中心とした祭政一致をはかるため、古代から続いてきた神仏混交を禁じた、神道国家による国家の統一であったから(p136)

・近代日本の感覚から見れば、植民地主義は「悪」だが、当時の世界では勢いのあるものが、そうでない国や地方を切り取ることはごぐ普通、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランスはそれを踏襲、ドイツ及びロシア、アメリカは遅れていた(p147)

・1878年に参謀本部が作られたことで、軍が政府から距離を置くようになった、日本の軍隊は天皇に直属する形となった(p148)

・徴兵令が出されたのが1873年、廃刀令(軍人、警官以外の帯刀禁止)が1876年に出された、西南戦争(1877年)はこのような背景ひおいて起きた(p149)

・西南戦争において、最強とうたわれていた薩摩武士といえども、百姓兵(近代兵器と洋式軍隊)に勝てずに、鹿児島県は明治政府に九州された(p151)

・小島判事は、ロシア皇太子事件で司法の独立を貫いたが、その後に大変ないじめに合って、引責辞任させられた、藩閥政治に逆らった例である(p168)

・自治体の長や、議員を選ぶ選挙権のある者は、国税2円以上を収める男子に限定、町村長は無給の名誉職であったので、会社経営者や地主しかなれない仕組みを作った(p174)

・長岡藩は北陸の中で孤立したが、河井(長岡藩家老)は装備の近代化をはかり、藩の防衛戦を戦ったが、彼の戦死により1867年7月29日に長岡城は陥落した(p197)