・幕府とは、「征夷大将軍が出陣する際の陣営」を意味するのもであり、諸外国と外交を初めていたので、征夷大将軍も幕府も必要がないことに、慶喜には分かっていた(p22)
・最後の将軍慶喜が、徳川幕府を倒した明治天皇や熾仁(たるひと)親王の兄にあたる、当時は幕府と天皇は深い関係にあった(p25)
・幕末の頃の1ドルと1両の交換レートは、1ドル=0.75両であった、当時の1両は5万円程度(p49)
・諸外国の関心事は、外交窓口には新政府と旧幕府のどちらがなるかであった、各国公使は鳥羽伏見の戦いまでは、大阪城で慶喜と会見していた(p52)
・慶喜が大政奉還を急いだのは、その頃朝廷では、薩長両藩に討幕の蜜勅が下されようとしていたから(p68)
・維新後の華族令により、徳川宗家・慶喜家(明治35年に創設)・水戸家は公爵に叙された、大名家では島津の本家と分家、毛利家の3つ、尾張と紀州は侯爵、御三卿は伯爵、華族制度は戦後に廃止されたが、旧華族からなる霞会館という団体はある(p83、229)
・長州藩は新田開発、瀬戸内海の開拓、製糖、製紙等の産業によって、幕末の実質石高は100万石になっていた(p85)・薩摩藩は総石高(77万石)であったが、平坦な土地が少なく、桜島噴火や風水害が多く、実質石高は半分程度(p86)
・借金総額が500万両(当時の幕府の財産:400万両)を超えて、利払いのみで60万両(300億円)となり、利払いなし、250年かけて元金返済という財政再建策をとった(1835年)、維新後に薩摩藩がなくなり、返済終了となる(p87)
・廃藩置県はスムーズにいったことに諸外国はびっくりしていたが、藩の借金を政府が肩代わりすることになっていたので、どの藩も大歓迎した(p89)
・幕府は、オランダ以外にも、朝鮮(対馬藩を窓口)、清国(薩摩藩が琉球を仲介して)、ロシア(加賀藩が樺太を中継して)、アイヌ(松前藩)等と密貿易をしていた、海外情報も正確に把握していた(p109)
・ペリー艦隊は4隻とも2000トン前後の木造船、2隻は蒸気船だが、残りは帆船、大砲が空砲とわかると花火気分であった(p113)
・錦の御旗とは、朝敵の討伐に出征する大将に天皇から与えられる旗であり、官軍の証となるもの、最初の錦旗は、承久の乱のときに後鳥羽上皇が北条義時を討つときに使用(p161)
・鳥羽伏見の戦いで、正月4日に、征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王に、錦の御旗が下賜された、淀藩の稲葉家(春日局の末裔で譜代中の譜代で、当時は老中)では徳川軍の入城を拒否した(p163)・譜代筆頭の彦根藩(徳川四天王の井伊家)も戦場には出陣しなかったものの、公然と新政府軍についた(p167)
・慶応4年(1868年)の4月4日が、江戸城開城であり、徳川幕府最後の日である、迎える最後の主は田安徳川家で、城を接収するのは官軍の先鋒である御三家の尾張徳川家(p194)
・江戸開城ととも旧幕府の軍艦8隻をすべて引き渡すことになっていたが、実際には4隻のみ、残りの軍艦(開陽丸、回天等)は輸送船4隻(咸臨丸等)、2000人の将兵とともに榎本が指揮して北上した(p207)
・日の丸と「君が代」が正式に国旗と国歌にさだめられたのは、平成11年8月13日であり、歴史は浅い(p223)
・大正元年から3年にかけて政界では政権交代が繰り返された、シーメンス事件で山本権兵衛内閣が総辞職すると、元老会議で大正天皇了承のもとに徳川家達に組閣の大命が下された、半世紀ぶりの政権奪回になったかも(p225)