・頼朝と義経が生きた時代には、子供は母親のところで育てられたので、同母の兄弟以外は一緒に育てられない、お互いは30歳を超えるまで一度も会ったことがない(p37)
・承久の変において北条政子の演説は一定の効果があったと思われるが、それ以上に大きな働きをしているのは大江広元である(p52)
・元寇最初の文永の役は、台風によって決着がついたのではなく、日本軍の抵抗が予想外に激しく、九州の奥地に後続の大軍がいると誤認したため撤退した、そこで暴風雨にあった(p56)
・足利尊氏が逆臣とされたのは、彼の擁立した天皇の系統(北朝)は正統王朝ではなく、後醍醐天皇の系統(南朝)が正統であると明治政府が断定したから(p60)
・日本人はずっと飛び道具主体(弓矢、石、礫)で戦っていたのであり、鉄砲導入により戦闘思想は変化していない(p77)
・川中島の戦いで4万人のうち2.7万人の死傷者が本当に出ていれば、武田も上杉も軍隊としての体をなさなくなる(p86)
・姉川の戦いで織田・徳川はすっきりとした勝ち方はしていない、数ヶ月後には浅井・朝倉は比叡山を根城に信長と対峙している(p90)
・三方ヶ原の戦いにおいて、両軍の騎馬武者ともに戦闘はおおむね下馬して実施、徳川が敗色濃厚になってから家康は馬に乗って逃げた、馬の使い方は逃走か追撃のどちらか(p94)
・長篠の戦いにおいて、武田が決戦したのは、包囲された長篠城を救うために織田・徳川軍が別働隊を出して武田側の付城を攻撃、これで退路を断たれたと武田が考えたから(p102)
・信長が造ったとされる全面装甲の鉄船というのはかなり怪しい、その十数年後に豊臣秀吉がつくられたところ、全て沈没してしまった(p106)
・織田水軍の大勝利が本当であれば、その後本願寺が2年間持ちこたえられたのが不思議(p107)
・本願寺が開城されたことは、歴史の転機であった、未だに行われていない聖と俗の分離が1580年に起こったことは後世への贈り物であった(p110)
・関ヶ原の戦いにおいて、西軍がおびき出されたのは事実ではなく、むしろ東軍が西軍の策(野戦築城に引っかかった)にはまったのが事実(p158)
・秀吉の天下統一が完了した天正18年では、秀吉は別格として、織田信雄、家康、豊臣秀長、豊臣秀次がほぼ同格で並んていた(p176)
・鳥羽、伏見の戦いで旧幕府軍を一気に壊滅させたのは、津藩藤堂家の裏切りである、関ヶ原の小早川と同じ(p180)
・大坂冬の陣で「真田丸」を守って徳川勢に大きな損害を与えたのは事実であるが、その功績の半ばは、そこを守った長宗我部盛親のもの(p184)
・大阪夏の陣で勝機ありとみた大野治長が、秀頼の出馬を仰いで決戦しようとして城内に向ったのが敗走と誤解されたのが敗因の原因という説もあり(p185)
・薩英戦争では、実際には互角以上の戦いをしていた、イギリスにとっては旗艦の艦長まで打ち倒されたことは衝撃であった(p193)
・桜田門外の変において、暗殺者たちは、いずれも贈位されたり靖国に祀られているが、大老を守って死んだ人は何の配慮もない(p199)
・鳥羽伏見の戦いの戦いにて「錦の御旗」が持ち出されたが、それは偽の錦の御旗であった(p208)