・厳島の戦い、毛利軍の活躍の証である感状が一通も現存していなく、毛利軍の勝利ではなかったということを意味している。(p5)
・無かった理由は、戦う前に敵が逃げてしまったから(p12)
・逃げた理由は、陶晴賢の厳島近海の味方の兵船が蹴散らされて、補給が期待できないと判明したから(p14)
・桶狭間の戦い、信長が鳴海城を5つの砦群で孤立させた時点で、義元がこれに援軍を出すのは確実であった(p18)
・信長が身一つで戦場へ向かったのは、すでに戦場には相当数の兵士が待機していたから(p21)
・歴戦の武将、佐々隼人正、千秋季忠が抜け駆けをして討ち死にしたのは、善照寺砦に兵を十分にいれていたから彼らが抜け駆けしたくなった(p25)
・今川の前衛部隊が崩れた、逃げる部隊を追う中で義元の塗り輿を発見する、この2つの偶然が番狂わせを起こした(p26)
・関東管領とは、関東(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、伊豆、甲斐の10か国)と陸奥、出羽の12か国を統治する鎌倉公方の補佐するもの(p31)
・謙信は冬の農閑期の間、働き場を失う越後の男たちを率いて関東に「出稼ぎ」にきていたのが、永禄年間に8回(3年から10年まで)出兵した理由(p35)
・川中島の戦い、武田家の一族や譜代家臣ばかりが死に、信濃の武将たちが無事であった(p45)
・1300-1850年ころまでの550年間は、地球は小氷河期ともいうべき寒冷期にあった、とくに酷かったのが永禄年間(1558-70)(p54)
・信長が、清州城から小牧城へ移転したのは、軍事拠点の移動という目的以外にも、貧困層を救済するという効果があった(p60)
・美濃の武将たちが織田勢と満足に戦わなかったのは、戦いたくても経済的に没落していて戦えなかった、農村が退転(農民が移住、農地が荒地)していたから(p61)
・信玄の西上は、本願寺や朝倉義景の要請に応えたもので、目的は織田信長を倒すことにあった(p62)
・騎乗していた日本の武士が、いざ戦闘というときに馬から下りていたのは事実、理由は、騎乗したまま戦ったら、やすやすと敵の歩兵たちの餌食になるため(p75)
・信玄に騎馬隊があったという事実は、小瀬甫庵がネタ本である「信長公記」を誤読したことにある、「馬上の巧者」を「馬術の得意な人」、「馬入る」を「馬で突入すること」と解釈した(p77)
・長篠の戦は、日の出(4:45)から、未の刻(13:10)まで続いた、約8時間も鉄砲を撃ち続けることは不可能(p80)
・信長が勝頼に勝てたのは、徹底的に守りを固めたことと、兵の数が多かったこと(p82)
・賤ヶ岳の戦いにて、利家の部隊が離脱してしまい佐久間盛政、柴田勝政の援護を放棄したため、勝家軍から脱走兵が増えて負けてしまった(p98)
・関ヶ原の戦いにおいて、西軍を離脱していた小早川秀秋の軍勢が、もっとも重要な一角(松尾山)を占拠してしまったため、関ヶ原に築かれていた西軍の防衛線は、崩壊の危機に瀕した(p124)