・濃尾平野が木曽川等の三大河川を擁して、毎年のように水害がおきて湿地帯となることは、2つの重要な意味がある、1)氾濫により肥沃な土壌が流れ込む土地であること、2)水害の度に、土地支配の権利関係が不明瞭になる(p9)
・信長が足利義輝将軍の上洛時に今川義元による抹殺を回避できたことで、木下藤吉郎は一躍、百人を統括する足軽頭に取り立てられた(p12)
・将の首を取るばかりが殊勲ではない、それができない者は馬盗りの方がはるかに易しいし儲かることを藤吉郎は教えた(p19)
・藤原道隆、道兼の相次ぐ死去により、30歳の若さで道長は摂政関白となった(p30)
・後年、藤吉郎は一時「藤原秀吉」を名乗り、関白の栄華を五男道長の系から奪い返した(p31)
・人は皆、その地位より一つ上のことをさせれば、目の色が変わる、一つ下のことをさせれば、目まで死んでしまう(p34)
・義元にとって心強いのは、武田信虎の側に立った家臣が武田晴信の復讐を恐れて駿河に流れ込んできた、これは武田軍団の強さが今川に流入したことを意味する(p75)
・今川義元は、朝倉隆景と同様に過小評価されているが、行政・法制上の手腕は一流(p77)
・藤吉郎が生駒屋敷(信長の側室)で働く決心をしたのは、1)信長の若さ、2)眼差しが三白眼(覇王の目)であったから(p99)
・尾張には「飛び道具は卑怯」と叫ぶ、鎌倉武士の伝統がなかったことが幸いして、鉄砲の導入が急がれた(p120)
・一ノ谷の戦いでは、平氏は法王による和平交渉の内意(一切武力行動をしない)を受けて軍装を解いていた、そこへ総攻撃をかけられた平家は、平通盛、忠度、経俊、敦盛等の名ある武将がことごとく討ち死にした(p158)
・信長は家康(元康)に対して威張ることはあったが、人質に対する差別ではなかった、氏真のように陰に回って主人風を吹かすような陰湿さはなかった(p172)
・当時の武将は山の頂や「狭間」で食事は摂らないのは常識、桶狭間山は、人と会うためでなければ寄り道する場所ではなかった、義元が誰かと会うために出向いたのは明らか(p196)
・桶狭間の戦いについては、今川方の記憶らしいものは一切ない、後に駿河を領有した家康の手で、すべての真実が消された可能性が高い(p247)
・当時の桶狭間の戦い(=嵐をついての堂々の奇襲戦法の勝利)を端から信じなかったのは、武田信玄だた一人(p271)
・論功行賞で賞を与えられたのは三人、服部小平太、毛利伸介(少量の砂金)と梁田政綱、梁田は義元の居場所を知らせて襲撃のきっかけを作ったことが理由(p274)
・信長は3人以外には、今川追撃戦に必死で働いた武将に何も与えなかった、これが「嵐の中の奇襲戦法」の勝利であれば、あり得ない(p274)
・長篠の戦で信長が家康にした援助は、鉄砲の貸与、五百挺のところを三千挺と世間に吹聴された(p287)
・信長は上杉との戦いで、逃げ道として官職で鎧を飾ること、信長が近衛の大将ならば、それに向かってくる上杉軍は名目上、賊軍となる(p302)
・信長は越前で浅井の裏切りにあって負けた後に、朝廷に起請文を出したので、朝廷は信長と義景の仲介を行ったので、朝倉は打倒信長の千載一遇のチャンスを逃した(p303)
・常識的に、迂回であれ正面作戦であれ、信長本隊が義元本隊に気づかれずに接近して大将首をとることはあり得ない(p318\)
・桶狭間の戦いの勝敗の理由を「信長の降伏」に絞り込んでストーリーを書いた(p318)