・「西」は天子南面すれば「右」を意味して、西と右は当時(戦国時代)は同義である、武士の住まいも本丸の次は「西の丸」であった(p23)
・秀吉は鶴松が生まれる前に、天皇の弟(胡佐丸)を養子に依頼していた、金山などは豊臣家の直轄であり、それが支配下に入ることを期待して朝廷は了解した(p29)
・京極高次は実質三日のみ抵抗したが、これにより毛利元康(輝元の叔父)と立花宗茂の1.5万人が大津に引き止められて関ヶ原の戦いに間に合わなかった、彼等が関ヶ原へ到着していたら、小早川秀秋の寝返りは不可能であったと思われる(p88)
・柴田勝家が最初に50万石を超えたが、その後に羽柴秀吉(弟秀長分を加えて70万石)と明智光秀(61万石)に抜かれた(p127)
・廻し飲みをすることで、武将たちが毒入り危険から解放されて連帯感が高まった(p129)
・茶々、初、小督の三人は、事前に勝家の命令で城落ちとなった(p166)
・関ヶ原の戦いで、家康は大垣城攻めを保留にして進軍を余儀なくされたため、関ヶ原で遭遇戦となり勝利となった(p252)
・徳川軍の3万は、諸将が軍監として豊臣軍に配属されていたので、中身は小姓や雑兵のみ、実戦力は、井伊直政と松平忠吉の6000のみ(p253)
・西軍は15日早朝には8万近くの大軍に膨れていて負けるはずがなかったが、霧の発生によりお互いの配置がわからなくなった(p255)
・家康は西軍大名90家を取り潰し、厳封した669万石を東軍諸将に配った(p263)
・家康は豊臣家の持っていた蔵入地:225万石の殆どを削って、65万石の大名に転落させた(p266)
・加藤清正の死亡後に、浅野長政、池田輝政、浅野幸長、前田利長が相次いで不審死となった(p273)