・生物の身体には、一定の割合で炭素(12C)と放射性炭素(14C)が含まれている、放射性炭素は生物の死後に炭素に変化して、約5600年で半減する。このことから遺跡からの出土品の年代測定を、炭素14年代法という(p24)
・旧石器時代の人は、焼くことと、火にあぶることの2つの調理法のみであったが、縄文人は、煮る料理と蒸す等の料理を使いこなせるようになったので、肉の硬い部分、筋のある植物でも食料にすることができた(p28)
・縄文人はすべての人間が霊魂を持つと考えた、霊魂は不滅で善良な心を有しているので、身体は滅んでも、目に見えない霊魂はいつまでも生きて自分の子供たちを見守ってくれると信じていた(p30)
・日本列島の気温は、約6500年前に最も温暖化して、約4500年前頃からじわじわと冷涼化していった(p38)
・保管に適しない、肉類・魚介類・果実・野草による生活は平等な社会を生み出すが、日本に水稲稲作が広まると、土地の占有が始まり貧富の差が生じる(p42)
・近年になり炭素測定法により、弥生時代の開始は紀元前800年前(それまでは紀元前300-200年)になった(p47)
・大和朝廷を指導した首長を「大王」といい、天皇の前身となる。7世紀後半の天武天皇がはじめて、天皇号を用いた(p63)
・古墳祭祀時代の崇拝の対象は2つあった、1つは、神々が集まるとされる山・海岸、特定の岩や樹木、もう1つは、首長の先祖を葬る古墳であった、7世紀頃から古墳の代わりに出雲大社や伊勢神宮の巨大な神殿が祭祀の対象(701年の大宝律令)となった(p74)
・大和朝廷は4世紀初めには九州北部にまで勢力を伸ばし、その後、朝鮮南端(加耶=任那)との貿易が始まった、良質の鉄の産地であった(p76)
・当時の河内には、河内湖という大きな湖があった、この辺りに応神天皇陵(羽曳野)や仁徳天皇陵(堺)が築かれた(p80)
・6世紀初め(507)に、継体天皇(26代)という強い指導力を持つ大王が立った(p84)
・日本書紀が伝える継体天皇以降の王家の系譜は、ほぼ誤りがない(p87)
・現在でも、大国主命を祭神とする有力な神社(出雲大社、気多神社、金刀比羅宮等)がある(p91)
・5世紀頃の大和朝廷では、蘇我氏(財政)、大伴氏(王宮警備)、土師氏(葬礼)と分担されていた、官位は大蔵卿(財政)=正四位下、衛門督(正五位上)、諸陵頭(従五位上)と差があった(p108)
・唐が成立した翌年の619年に高句麗が、621年に百済と新羅が中国に朝貢を行ったので、624年に朝鮮3国の君主は、高句麗王・百済王・新羅王に任命されて、唐の皇帝の臣下とされた、日本が最初の遣唐使を派遣したのは630年(p115)
・大化3年(647)に、冠位12階に代わる新たな冠位が定められた、冠位12階で冠位の枠の外、冠位をもつ者より上に位置付けられた王族と大臣(後の正一位から従三位まで)を組み込むもの(p128)
・白村江の戦いの4年後(667)に、中大兄皇子は大津宮に遷都した、これは唐や新羅の侵攻を恐れたため(p131)
・天武天皇は、壬申の乱の翌年の即位(673)にあたり、中国皇帝と対等の「天皇」を名乗った、それとともに中国の下位に位置づけられた「倭国」の国号を廃して「日本」の名称を対外的に用いた、同時に、大后が皇后、大兄が皇太子、王子が皇子に変わった(p144)
・天武天皇の時代に、伊勢神宮は皇室の守りである最も格の高い神社とされた、これよりも前の朝廷は、笠縫村(高宮神社)で太陽神を祀っていた(p146)
・官制の再編により、太政官(国政にあたる役所:6官)と宮内官の2つの組織の下にまとめられた(p149)
・太政官に新たに、中納言と参議の官職が設けられ、左大臣・右大臣・大納言と併せて「公卿」と呼ばれた、10名程度の朝廷の有力者が担当した(p171)
・平城京の人口は、約10万人程度、日本全体が450万人程度なので、地方から大量の食糧が運び込まれた(p173)
・古代日本は、ローマ帝国や古代中国などの専制国家とは全く異なり、天皇は独裁者ではなく、多くの貴族の支えの上に立てられた君主であった(p213)