・中国では、漢の太初元年(前104)から施行された大初暦から最後の王朝の清が滅びて、1912年に太陽暦が採用されるまで、50回ほどの改暦が行われた(p14)
・日本へは、宋の元嘉暦、唐の麟徳暦・大えん暦・五紀暦・宣明暦の5つがもたらされた(p15)
・陰暦(30日の大の月と29日の小の月を交互に繰り返す)の1年は、太陽暦よりも11日余り短いので、この差を3年目に、ときどきは2年目に閏月を入れて1年を13日にした(p18)
・中国で成立した28宿は、赤道を基準に不等間隔に分けた星座、宿曜経は28宿と7曜の関係によって人の運命を占って、日の吉凶を知る方法、28宿は恒星の一部で、七曜は日月と5つの惑星のこと(p49)
・シーザー(カエサル)は、紀元前46年、それまでローマで用いられていた不完全な太陰太陽暦を廃して太陽暦の採用を決定した(p65)
・紀元前44年に、今の7月にあたるクインチリス月を廃して、自分の名のユリウスを入れて、その後の皇帝であるアウグストゥスは、セクスチウス月のかわりにアウグストゥスを入れた。3月年初とすれば、7、8月は5,6番目に当っている。9月セプテンバーから、12月ディセンバーも、もとは7から10を表す数詞である(p68)
・1582年には春分の日が3月11日になっていたので、再び21日に戻すために、ユリウス暦の1582年10月4日の翌日をグリゴリオ暦の10月15日とした(p69)
・伊能忠敬は隠居時には3万両の財を残していたので、ある程度の自費を以ってして測量事業が始められた(p125)
・江戸時代の時刻制は不定自制で、明六つから暮六つまでを6つに分けて、昼の1とき、暮六つから明け六つまでを6つに分けて、夜の1ときとしていた、変わらないのは、昼の九つは正午、夜の九つは午前0時ということ(p142、144)
・明治5年11月9日に太陽暦改暦の詔書(明治5年12月3日を以って明治6年1月1日とする)が突然発布され、そのときすでに旧暦の暦が頒行されたあとで、弘暦者は大損害を受けた、暦注の載っていない太陽暦では一般のうけは悪かった(p158,160)
・官吏の俸給を一括払いから月給制を採用したのに、今度はその月給を13か月分払うのでは月給制を採用した意味がなくなるので、太陽暦への変更を急いだ(p159)
・グレゴリオ暦の成立由来をたどれば、春分を3月21日に固定して、復活祭が3月22日から4月25日までに納めるようにしたもの(p176)