・金印をもらった当時(57)の日本はシナをも凌ぐ技術力を有していて一目置かれていた、そうでなければ北部九州の一小国に「金印」は与えられない、当時の韓は「銅印」しか与えられなかった(p47)
・疑似倭人伝を読み解くには、当時の実情を勘案し、シナ人の習慣を考慮したうえで、船や陸行で1日どの程度進むかを理解すべき(p63)
・2-4世紀において、黥面文身習俗を持つ地域と持たない地域があり、この習俗をもつ国々がシナと通じていて、近畿地方において持たなくなったのは、大和朝廷の影響力が拡大していったから(p70)
・弥生時代に見られなかった入墨習慣が、5-6世紀の古墳時代になると顕在化する、それは支配層や一般の人々の習慣でなく、肯定的に捉えられたものでない(p73)
・教職追放令(昭和20.10占領軍の指令)は、昭和27.4.27(サンフランシスコ条約締結)まで拘束、初年度の審査により約5000名が追放されたが、その前に約11.6万人の関係者が職場を去っていた、自己防衛のために反日左翼(米国と中ソに平伏)に変質していきその受け皿が日教組である(p79)
・皇紀在位年数を春秋年として実年換算すると、実在位年数は半分となる(p111)
・第17代以降に在位年数の短い天皇が出現するようになる、その原因の一つが、神武天皇以来、皇室の原則であった末子相続が崩れたことと関係する、末子相続なら天皇の即位年齢が若くなり、即位後の皇后や妃から生まれた子は正真正銘の皇子となる(p210)
・皇紀崩御年と、実年の崩御年をグラフ化(p223)すると、神武天皇が即位された皇紀前660年とは、実年では、紀元前70年となる(p222)
・49年以来、日本と百済は堅い同盟で結ばれることになる(p265)
・倭の5王とは、讃:仁徳天皇、珍:反正天皇、済:允恭天皇、興:安康天皇、武:雄略天皇である(p275)
・今のソウルに2つの前方後円墳があるのは、百済は日本の臣民となり、宮家(分国)であったことからうなずける(p280)
・百済歴代の王子は日本に住み天皇と話をしていたので、宮家である百済の王室は日本語を話していただろう、日本の臣民であった百済や任那の人々も日本語を話していただろう、百済滅亡後に多くの百済人がやってきたが言葉が繋がらなかった記録はない(p285)
・任那には、加羅国、安羅国等、合わせて10国ある、562年に新羅が任那の宮家を打ち滅ぼした(p287)
・日本の援助により再興の兆しの見えていた百済で内紛が起きていた、これが致命傷となり、663年の白村江の敗戦と百済の洲柔(つゆ)城が陥落して、百済は滅んだ(p289)
・688年、新羅により導かれた唐の軍により、高句麗も滅ぼされた、そして多くの高麗人と共に、高麗王・若光も日本へと逃れてきた(p290)
・新羅は半島を統一して、朝鮮民族はシナの属国となり生きていった、創氏改名を行い、一字姓となった、シナの元号を使い、犬・人食い・宦官も取り入れた、朝鮮なる国名もシナに決めてもらった、儒教を国教として寺を破壊し、仏教を滅ぼした(p291)