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出光佐三 反骨の言魂(ことだま) 日本人としての誇りを貫いた男の生涯 (PHPビジネス新書)

出光佐三 反骨の言魂(ことだま) 日本人としての誇りを貫いた男の生涯 (PHPビジネス新書)の写真

・出光氏は神戸高商の卒業論文において、石炭が主エネルギー源として降盛をきわめていた時に、石炭に対する石油の有利な点を上げた、採掘に労力かからない・エネルギー量に比べ積み込み重量が減る・煤煙がない・積み込み時間が少ない・遠距離輸送可能・管理容易(p39)

・日田氏は出光氏に資金提供にあたり、1)従業員を家族と思い仲良く仕事する、2)自分の主義主張を最後まで通す、3)自分が金を出したことを人に言わない、という条件をつけた(p48)

・店を開いてすぐに、出光は日本石油の下関支店を訪れて、日石の特約店にしてくれないかを申し入れた(p50)

・大正3年5月に、南秋田郡金足村で、黒川油田5号井がものすごい油を噴出し、日石の株価は連日のストップ高となった。当時、日本は使いきれない油を手にした(p57)

・機関車の実験において、出光油は外油に勝利したが、出光油は引火点が130度で規格に満たしていないことを外油の技師たちは文句をつけた(p77)

・石油精製業者は全国に直営のガソリンスタンドを持ち、消費者に直接製品を売っているが、それは出光が発明したシステム、当時は生産者と小売業者の間に卸売業者が介入するのが常識であった(p86)

・出光が株式会社方式を採用したのは昭和14年、12月には上海に資本金1000万円の「中華出光興産」、同月に、資本金150万円の「満州出光興産」、15年には資本金400万円の「出光興産」を東京に置いた(p90)

・満州石油は、需要の半分を売り、残りを外油に与えていた、内地のメンバーは、日石・三菱・小倉・丸善などのほかに満鉄と三井物産(p110)

・日本軍は昭和17年1月にフィリピンマニラを占領、ビルマ、シンガポールを支配し、3月にはジャワ島に上陸したので石油の問題は一気に解決した。石油生産量は年産1000万キロリットルで日本の全需要以上であった、このとき出光の親会社である日石は、帝国石油に吸収された、このとき出光と日石の縁が切れた(p122)

・太平洋戦争において、日本人の戦死者は民間人含めて300万人、船舶の80%、工業用機械の34%、一般家庭の家財の20%、国富の4分の1が消失した(p133)

・特殊整理委員会が、旧三井物産のタンク群を三井系のゼネラル物産に売ろうとしているのを、熊谷商会と一緒に抗議して認められた。そのおかげで出光は6つのタンク(徳山、門司、宇部、大阪、釜石、釧路)で一番札を取った、これが出光が今ある原点である(p163)

・昭和24年3月、外油(スタンダード、カルテックス、シェル)および日本石油、昭和石油、三菱石油、日本鉱業、ゼネラル物産、日本魚網船具、とならんで出光も元売業者になった(p164)

・昭和30年代半ば、全国の農家は家庭用の熱源を薪炭から灯油に切り替えた、薪炭地の雑木を伐採しなくなったので、マツタケが姿を消して高級食品になった(p264)