・鎌倉幕府の成立で有力なのは、1185年。頼朝が全国に守護・地頭を全国へ派遣する権利、兵糧米の徴収権、国衙の支配権をえたことが根拠(p52)
・文永の役(1274)で元軍が退いたのは、現代暦では11.26にあたり西日本に台風が来るとは思えない時期。これは威力偵察であった(p56)
・弘安の役(1281)では、二ヶ月にわたって上陸を許さなかったので、その間に台風シーズンとなり、8.23(旧暦8.1)に暴風雨となった(p56)
・南北朝時代(1336-1382)に、九州に独立国があった。懐良親王が南朝の強固な拠点として北九州一帯を制圧した(p58)
・鉄砲伝来は、ポルトガル人ではなく、倭寇の頭目王直を介して行われた。当時の倭寇は日本人は1-2割程度(p62、65)
・そもそも武田軍には騎馬軍団はなかったとする説が有力、甲陽軍艦には、戦場では騎乗の武将も馬(体高が120センチほど)から降りて槍で戦った(p72)
・信長の暴挙とされる比叡山の焼き討ちは、発掘調査の結果、焼土層があまり見つからず、大規模ではなく山火事程度と推測される(p75)
・本能寺は、発掘の結果、周囲を堀で囲まれていて、内部も堀・石垣によって区画されていた。(p80)
・刀狩は交付されなかった大名領がある、上杉・徳川・宇喜多・毛利の4大老の領地ではされていない。前田領では、自ら実施した(p85)
・江戸幕府は鎖国していなかった、国際関係の窓口は4箇所(松前:蝦夷地、対馬:朝鮮・中国、長崎:オランダ、薩摩:琉球・中国)、徳川幕府は全部を統括していた(p86)
・氏とは、先祖を同じくする豪族のことで、政治的立場や職務におうじて、姓(かばね)という称号が与えられた(p100)
・仁徳天皇稜の名は、教科書から消えて、大山陵古墳、大仙古墳といった名前で紹介されている。(p104)
・もともと東北地方に住んでいたのは蝦夷であり、そこへ侵略行為を繰り返したのは、むしろ朝廷側。蝦夷から見れば、自分たちの権利を守る戦争であった(p111)
・将軍家の直轄領は400万石、直臣の領地が300万石であり、この合計は幕領となる(p131)
・日宋貿易は、日本からは、砂金・真珠・硫黄・杉や檜が輸出されて、宋銭・香料・薬品・書籍・陶磁器などが輸入された(p210)
・浄土真宗は、親鸞ののち、合計10派(真宗十派)に分かれた。(p215)
・楽市楽座は、信長よりも以前に、今川(富士大宮)、斉藤(稲葉山城)、六角(観音寺城)で行っていた。信長は、それを最も友好的に活用した(p227)