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summary

30の都市からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

30の都市からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)の写真

・明治14年の政変により大隈重信が政敵である伊藤博文によって国会から追放、事件に巻き込まれた開拓使は翌年に廃止、北海道は札幌・函館・根室県に分割、明治19年には北海道庁設置されて統合(p14、15)

・松前藩は、松前・江差・箱館を交易港に指定、この3港以外での交易を禁止した、ロシアの南下を警戒した幕府は箱館を含む蝦夷地の大部分を松前藩から取り上げて、1802年には直轄市として箱館奉行所を設置(p20)

・十三湊(津軽半島北西部)は、安藤氏のもとで栄えた中世の交易都市で、日本有数の国際貿易港が13-15世紀前半にかけて存在していた、「とさみなと」と読むのは、アイヌ語の「トーサム:湖のほとり」に由来する(p25、27)

・15世紀半ばに八戸方面から南部氏が進行し、安藤氏は蝦夷地へ逃亡、南部氏が手を付けなかった「十三湊」は衰退し、野辺地湊や大浜に移った(p31)

・藤原清衡が中尊寺を建てることができたのは、領内で金が豊富に産出したから(p35)

・平安時代の会津若松は、京都・奈良・鎌倉・平泉と並ぶ、仏都であり、磐梯山麓には会津仏教の中心として巨刹「恵日寺」が建立された(p52)

・会津若松に入ったのは、3代将軍家光の異母兄弟でもある、保科正之である。これ以降、松平姓と葵紋の使用が許され、会津藩は幕末まで存続した(p57)

・小田原合戦に参戦した宇都宮氏は、領地安堵されたが、7年後の太閤検地の際に不正が見つかり没収された。会津の蒲生秀行が入った(p62)

・第二次世界大戦中に中国満州へ進駐した、第14師団はそこで餃子の製法を知り、終戦を迎えて帰還した彼らによって宇都宮で製法が広まった(p66)

・平安末期、桓武平氏の流れを汲む、秩父重綱の子・重継は武蔵の江戸郷(入り江の入り口、という意味)に移り住み、江戸氏を名乗った、居館はのちの江戸城本丸、皇居の東御苑にあった。江戸家は鎌倉幕府滅亡後に衰退し、江戸郷を離れた。その後は関東管領・扇谷上杉家の家宰である太田道灌が武蔵に進出し、1457年に江戸城を建造した(p70)

・明暦大火では本丸が焼失、4代将軍家綱の輔弼役の保科正之は天守不要と断じ、その再建費用を市街地復興に充てた、それ以降江戸城天守は再建されていない(p76)

・幕府が江戸の範囲を公式に定めたのは、1818年のこと、現在の江戸川区・葛飾区・足立区・練馬区・中野区・杉並区・世田谷区・大田区は江戸に含まれない(p77)

・大江戸八百八町という言葉は、家綱時代に、ひとつの街(家屋敷20-30)につき、一人だけ営業された髪結い職人が808人いたことに由来する。19世紀には1700もの町があった(p79)

・日米修好通商条規が結ばれた後、人の出入りの多い神奈川宿の近くを開港するよりも、神奈川湊の対岸にあった横浜村に新たな港をつくることにした、開港場の範囲は、大岡川・中村川に挟まれた地域内を「関内」外側は「関外」と言われた、1887年頃から横浜にあった領事館は東京へ移転した、1899年に居留地は正式に日本へ返還された(p85、86、90)

・北条早雲は1519年に死去した後、家督は嫡男の氏綱へ引き継がれ、本城を韮山から小田原に移し、伊勢から北条に苗字を改めた。(p105)

・1899年には新津油田で機械を使っての石油掘削が始まり、大正時代には日本最大の油田となり、新潟は石油産業で潤った(p129)

・軍部及び学都となった金沢には人が移り住み、江戸時代には、江戸・大坂・京都に次ぐ、約12万人であったが、明治30年には8万人に減少、大正9年に回復(p139)

・1610年に、名古屋城が築かれ、清州の町を丸ごと名古屋へ移動させる、「清州越し」が家康の命令で断行された(p141)

・那古野城は、北西の清州を拠点とした、京都に近い近江に安土城を建てると、重要性が低くなり1582年には廃城となった(p145)

・名古屋は、江戸とも大坂とも異なる独自性を持った都市に成長した、4代藩主となった徳川吉通は将軍職につくよりも、藩主の職務を重視する方針を定めて、家訓となった。このため、7代将軍・家継の後継者争いには消極的であった(p148)

・伊勢神宮は、天皇家の先祖とされる天照大神を祀る「内宮」と、五穀を司る豊受大神を祀る「外宮」を中心に、125もの神社がある巨大な宗教施設で、伊勢市の4分の1以上を占める(p153)

・呉服屋から発展した三越百貨店、明治時代に大財閥となった三井家は、伊勢商人を源流としている(p157)

・東西方向の道を「通」、南北方向の道を「筋」と呼んでいる。道幅の広い幹線道路(通)と、それと直交する狭い生活道路(筋)を区別したから(p187)

・明治時代になり、大坂は、「大阪」に生まれ変わる。株仲間など江戸時代に認められていた特権はく奪、藩の解体にともなう大名蔵屋敷の廃止により、豪商の倒産が相次いだが、紡績業が盛んになり日本一の繊維の町となった(p191)

・応仁の乱のときに、西軍の大内家が幕府の外交である「兵庫津」を占領、このことは室町幕府や東軍の細川家にとって、瀬戸内海から玄界灘へ抜ける航路が封鎖されたことを意味した、以降、幕府が推進する日明貿易は、堺が拠点となり、高知・鹿児島周りの航路となった(p198)

・秀吉は石田三成を堺奉行に任じて、町人による自治は名実ともに終焉を迎えた(p199)

・京都の町は「四神相応」という思想が取り入れられている、青龍・川(東:鴨川)、白虎・道(西:山陰道)、朱雀・開かれた土地(南:巨椋池)、玄武・山(北:船岡山)、左京は「洛陽城」右京は「長安城」と呼ばれたが、低湿地である右京は廃れた(p202、204)

・兵庫津の東にあった人口の少ない神戸村に新たな港と外国人居留地が築かれた、1868年の兵庫開港は実質神戸開港であった、湊川を境にして西を「兵庫港」東を「神戸港」と定めたが、後年にはひとまとめに神戸港となった(p220)

・居留地の西側にも外国人の居住が許された雑居地が築かれる、これが横浜などの他の開港地にはない神戸特有のもの、居留地からあふれた外国人と日本人が混在する地域となった、修好条規の対象外となった中国の清王朝の人々は雑居地に集まって中華街を形成した(p222)

・日清戦争中は、広島城に大本営がおかれ、明治天皇をはじめとする政府要人が集まり、臨時帝国議会が開かれるなど、実質的に臨時の首都になった(p232)

・道後には日本最古の温泉と呼ばれる、道後温泉があり多くの天皇が訪れた(p254)

・福岡城下町の成立後は、那珂川の東が古くからの商業の町「博多」、西が武士の町「福岡」という二重構造を持つ都市となり、それぞれに町奉行がおかれた(p270)

・1889年には自治体名称は福岡市となったが、翌年には名称変更が市議会で討議された、投票の結果同数であったが議長判断で「福岡市」しかし、博多の名への愛着は強く、空港名は「福岡空港」だが、JRは「博多駅」港湾は「博多港」となっている(p272)

・1854年7月に結ばれた、琉米修好条約は、日米和親条約とは別のものであり、当時の沖縄が欧米諸国からは江戸幕府からは独立した政権と見なされていたことを示す(p299)