・農業社会そして産業社会を分ける2つの革命(稲作農耕、工業化)以外に、日本人口の歴史には2つの変化がある。1)4-5000年前の縄文中期、2)16-17世紀の人口増加である、後者は農業社会の中で生じた経済システムの変化である(p19)
・縄文中期には、東日本地域の人口は25万人程度と、全体の96%を占めていた、激減した後期でも86%を占めていた(p29)
・1万年前、日本列島の平均気温は現在よりも2度低かったが、その後に温暖化しはじめて、6千年前には現在より1度以上高くなった。これは新潟市から高知市あたりに位置を動かしたのに等しい変化(p36)
・縄文人の15歳時余命は、男女ともに16年程度で、平均寿命は31年程度、江戸時代の40年と比べても短命である(p43)
・7世紀後半に始まった戸籍制度は、824年までは戸籍に基づき班田収授が行われたが、その年を最後に全国一斉の造籍はされなくなった、現存する戸籍は1004年、計帳は1120年のものが最後(p51)
・3世紀の邪馬台国時代の人口は、魏志和人伝によれば、邪馬台国以下29か国の戸数から、180万人と推計できる、奈良時代は600万人程度(p52、56)
・弥生時代には西日本の人口は全体の51%におよび、9世紀には58%を占めるようになった、東日本の増加以上に増え方が多かった(p60)
・12世紀における旱害(かんがい)の打撃は、西日本を中心に大きかった、10-12世紀において西日本の人口はほとんど増えていない(p67)
・1671年の幕令により宗門改の徹底化が図られ、人別改も毎年行われた。こうして成立した宗門人別制度は、キリシタンが表面的にほとんど見られなくなってからも慣習的に続けられて、次第に戸籍調査として定着し、1872年(明治5)に壬申戸籍が成立するまで続けられた(p79)
・最初の調査は、1721年に行われたが、5年後に実施された、この年は丙午にあたり、それ以後6年に1度、子年と午年に行われたので、子午(しご)改と称された(p80)
・1600年の人口は、慶長石高や石高に比例する人口、非農村人口を考慮して、1000万人程度と推定される(p82)
・都市の存在がなぜ人口増加を阻害するかは、都市の高い死亡率と、低い出生率にあった、そのため都市内部において人口再生産ができなくなり、周辺農村から不断の人口流入を必要とした(p104)
・16,17世紀は婚姻革命と呼んでい良いほどの大きな変動が起きた、それ以前と比較して有配偶率の比率が著しく高まった。女性の結婚は、生家の家族労働力や経済力に左右された(p110,123)
・「三くだり半」は、離婚して再出発を期した妻の側の要請によって書かれたものがあり、婚家を離れた嫁が、再婚少しる自由を保証したものであった(p130)
・18世紀末から明治初年にかけて、地主層は多くの分家を出した、平均初婚年齢が24歳以上の自作・小作農では人口再生産は不可能であり、地主層のみが可能となる(p153)
・出生時平均余命が50歳を超えたのは、第二次世界大戦後の1947年である、1600年頃の寿命は30歳程度、第一回生命表(1891-98調査)では、男42歳、女44歳であった(p174)
・慶応年間の江戸5か町の有配偶率は男50%、女59%であった、幕末での京都3カ町では、男43%、女60%であった(p191)
・近代的戸籍制度が始まった1872年の日本の人口は、3481万人、1900年には4385万人、第一回国勢調査の1920年には、5596万人、1967年には1億人を突破した(p217)
・日本では文明システムが4回交代した、1)縄文、2)水稲農耕化、3)経済社会化、4)工業化システム、である。(p254)