・どんなに強い政治権力を持つ者でも逆らえない掟がある、それが「経済の掟」例としては、お金をたくさん刷れば必ずインフレが起きる、お金の量が減ればデフレになる、デフレになるときには自国通貨高になる、である(p3)
・政治権力の不安定化の根本原因は、まさにデフレであり、これを解決しない限り政権の安定は無かった、室町時代の戦乱が続いた理由として、天候不順による飢饉の頻発・武士(守護)による連合政権で不安定だった、以外にも、経済的な理由(デフレ)による(p7)
・本当の貨幣と言えるレベルの国産のお金が登場するのは、天正16年(1588)の天正菱大判から、流通という観点からであれば、慶長6年(1601)からの慶長小判である(p29)
・米との交換レート、鎌倉時代においては、支那では、銅銭1貫文(1000文)当たり、コメ0.5石、日本では1貫文=1石という固定レートを採用していた。(p32)
・国産貨幣を発行しなかったので、実体経済の発達に比べていつも貨幣が不足気味、そのため銅銭の価値を7倍くらいにしないと国内のモノとお金のバランスが取れなかった。つまり、中世の日本はモノより輸入される銅銭のほうがずっと貴重であった、モノよりもお金を尊ぶ、デフレ期待を抱いていた(p34)
・支那との交易は邪馬台国の時代からあったが、銭貨の流入という点で考えると、平安時代末期の「日宋貿易」あたりからが妥当。元寇など政府間では対立はあったが、民間貿易が途絶えることは無かった、この時、すでに明朝の銅銭は基軸通貨であった(p35、39)
・室町時代は銭貨を輸入して、銅銭1枚1文という固定ルートを採用していた、また銭貨の輸入は自由だったので資本取引は自由なので、金融政策の自由を失っていた(p56)
・鎌倉、室町を通じて、比叡山延暦寺(天台宗)の巨大権門に立ち向かったのが、五山(臨済宗:1195年に聖福寺が日本最初の禅寺として開山)、本願寺(浄土真宗本願寺派)や日蓮宗も新興勢力であった(p88)
・箱崎宮は国営港湾(朝廷直轄の貿易拠点)、博多津は民営港湾(平清盛、新興貴族の拠点)であり、民営の方が栄えた。(p96)
・現在の使用価値で1貫が10-20万円であるとすると、日栄貿易(10隻)1回分の貿易で、80-160億円の大金を積んでいた、当時のGDP(724億円)を考慮すると凄いお金(p100,101)
・当初は藤原家の領地だった大和国は、いつの間にか興福寺の荘園になってしまった、鎌倉・室町時代を通して幕府は守護を置けなかった(p107)
・鎌倉幕府の発展と臨済宗(五山)の発展は車の両輪、平安時代における藤原氏と興福寺の関係と全く同じ(p110)
・鎌倉時代、室町時代にたびたび借金を帳消しにする「徳政令」が発布されたが、その理由はまさに気候変動による農業被害が原因であった(p115)
・五山に限らず当時の寺社では、宗教活動をメインにする禅僧集団を「西班」、寺社の経理・財務・荘園経営をメインにする集団を「東班」と呼んでいた(p127)
・貨幣不足の室町時代に唯一の貨幣増加手段である支那との交易を止めてしまったので、デフレとなる。日明貿易が再開される1432年までの21年間はデフレ続き(p147)
・応仁の乱の勝ち組は、細川氏(堺商人)と大内氏(博多商人)であった、本国で内紛のあった四職家(山名、一色、赤松、京極)とは異なる(p163)
・比叡山を焼いた男としては、細川正元(1493)は、足利義教に続いて二人目であった(p178)
・本願寺は、比叡山や五山と異なり、荘園を持たずに信徒からの喜捨によって資金を集めていた、年貢を取るのでもなく関所からの通行税もなく、経済成長に合わせた寄付金による画期的システムであった(p190)
・三好長慶と将軍家は1552年に和解したが翌年に決裂し、長慶が、淡路・讃岐・和泉・丹波・山城など、畿内の主要地域を終わ目る天下人になった(p220)