・民主主義とは、皆で分かち合うことを重要視する考え方です、王様や貴族などの一部の人間だけが富や権力を独占するのではなく、全ての人が富や権力を分かち合うシステムである(p23)
・憲法の起源は13世紀に遡る、当時イギリス王ジョンは自らの失策によってフランスとの戦争に敗北し、フランス内の領地は殆ど失った、それでもジョン王は無謀な戦争を仕掛け再び敗北した。1215年貴族を中心とした国民がジョン王に退位を求めて団結した、退位させられることはなかったが、王の権限を大幅に制限する文書を認めさせた、これば「マグナ・カルタ(大憲章)」である。(p29)アメリカでは、圧政と戦ってきた人々が、国家を「Con(一緒に)+stitutus(作る)」ことを誓う中で憲法は生まれた(p30)
・郡の専門化によって、政治と軍事の分離が明確になされるようになり、軍事のことはプロの軍人に任せるという不文律が成立し始める。特に砲術を主たる戦力とする海軍は、高度な専門家の集団となり、政治家が口出しすることができない領域として早い時期から独立した、イギリスでは政治と軍事の分立が進み、軍人でない者が王になった、当時イギリスを訪れたスペイン人やイタリア人たちは、女性に寛大なイギリス社会を批判的に見ていた(p38)
・16世紀以降、初期の法治国家では、国家権力は土地の所有権を法的に保障した、今でいう土地の登記簿のような証書を王や皇帝の名で発行し、法的な補償とした。法に逆らい、武力で所有権を侵犯する者は、国家権力が制裁を加えた。武力と比べて法的な補償は証書一枚で済む話で、はるかに合理的であることを人々が気づき始めた。こうして個人の権利が認められ、法的な所有権の考え方が社会全体に一般化されていく(p41)
・欧州カ国の労働者政党は、マルクスの武力革命を否定し、議会政治の中で合法的な労働者の権利を拡大する方法をとる。民主主義的な選挙で付託を受けた議員や議会によって労働者運動を広げようとする考え方は穏当で、現実味があり、当時の資本主義のシステムを急激に変えるものではなく、人々にも理解されて普及した。ドイツの社会民主党、イギリスの労働党、フランスの社会党など、19世紀後半、各国で労働者の参政権が認められていく(p53)
・民主主義の長い歩みの中で、近代以降奴隷的な支配は非人道的なものとして排除されて、労働者や下層民に主権、人権が与えられた。労働者を奴隷の如く非人道的に酷使することは、現代の民主主義国家においては許されない。しかし、それは国内で許されていないので、国外に求められる。先進国が途上国へ進出し、現地の安い労働力を大量に雇い入れる(p55)19世紀に欧州の労働者が隷属状態から解放されていく背景にも、同じく彼らの代わりに国外で奴隷的労働を担った人々の存在があったことを忘れてはならない(p56)
・民主主義を歴史的に見た時、そもそも民主主義には国民の全てが参政権を有する「国民主権」という考え方はなかった、今日の我々が持っている「民主主義=全員参加の政治」という概念は後世に付け足されたものに過ぎず、決して民主主義の普遍の論理ではない。富裕なエリート層が投票権を持ち、限られた範囲で政治の意思決定を充実させる、それが民主主義の一般原理とされ、円滑に運営された時期が長く続いた(p75)民主主義における主権の付与は、歴史的に国家の政治に対する「真摯な関心」が前提であったが、いつの間にか、その前提が成立していない状況に陥っている、これが今日における民主主義の危機である(p79)
・アメリカでは北部で商工業者(ブルジョア)が共和党を組織し、南部の農業者(民主党勢力)に対抗した、両者は貿易政策をはじめとする経済政策で激しく対立していた、北部は連邦政府による国家主導型の中央政権に対して、南部は連邦政府が地方ひ介入することを望まない地主による地方分権、封建的な保守政治を主張していた、南部は広大な農地を耕す労働力である奴隷は不可欠であったが、北部は南部の奴隷制を批判していた(p113)
・奴隷制度や貿易制度を調整する妥協案が出されて互いの譲歩が引き出されていて、議論を重ねることが妥協案に盛り込まれていたが、それを認めず強硬な態度で臨んだのがリンカーンであった、そして南北戦争(1861-65)に突入。(p115)
・南北戦争の頃、ドイツでも近代工業化とともに、ブルジョワ商工業者などの革新派と守旧勢力(保守派)が対立していた、工業化を積極的に推進するプロイセンにつくかつかないかで真っ二つに割れていた。保守貴族の強かった南部のバイエルンはオーストリアやフランスと協調していた、ビスマルクは保守勢力を直接武力で粉砕せずに、彼らの背後にいるオーストリアやフランスを叩いてドイツの保守勢力を従わせた(p119)南北戦争時代のアメリカのように、民衆が正義とか自由という言葉を持ち出して、義憤的な感情で政治に関わる時、哀れな結果を招く。民衆の感情に火がつくと、民衆を抑制しようとするリーダーは排除される、その代わり民衆を扇動するリーダーが前面に立たされ、政治はコントロール不能になる(p138)
・明治維新はブルジョワ市民によって起こされたものではなく、特権階級の武士によって起こされたものである。江戸時代の大聖人や町人は欧州におけるブルジョワ市民に相当するものですが、革命を主導するような力はなかった。武士という封建勢力が、自らの手で既得権を解体し、その地位を捨て、改革を断行し、万民平等の新しい世を創った。また廃藩置県によって、自らの拠り所であった藩を解体し、藩の有する軍事力を新政府軍に統合した。私的な介入や一部の人間の恣意を排除し、軍を国家公民のための公軍とした(p139)殿様である藩主が自らの特権を手放したのは、身分の低い足軽上がりの革命者が命じたからではなく、天皇の大命を仰いだからであった(p140)
・伊東博文は、山県たち旧知派の抵抗を押し切り、侯爵の地位を返上して政党の結成に突き進んだ、公家の西園寺公望、原敬と共に立憲政友会を組織して総裁に就いた、こうして伊藤は政党政治への道を開き、国民の政治参加を可能にした、これは「第二の維新」とも言うべき革新的な出来事であった。政府は独裁的な政治運営をやめて、議会・民党との連携・協調していくようになる。産業政策、金融制度、税制体系を整備していった(p153)
・ヒトラーが主導したナチスは、正式には「国会社会主義ドイツ労働者党」というが、社会主義の政党ではない、それは国民大多数の労働者からの支持と票を獲得するための見せかけの看板である。本質的にナチ党は、巨大独占資本会社と癒着した極端な資本主義政党である(p171)
・当時のドイツ国民のほとんどが、ヒトラーを選ぶことが破滅につながるとは予想していなかった、ここが民主主義の恐ろしいところである。みんなが選んだ代表者、みんなが選んだ政治、みんなが認めた価値観、これらのものは多数によって正当性が保証されていると、知らず知らずのうちに思い込まされていく。民主主義という集団における価値判断が先行するとき、その価値判断が誤っているのではないかと疑いを抱いたとしても、普通の人間はそれに抵抗することはできない、抵抗することによって引き起こすであろう集団の反発や怒りを恐れるから(p175)
・歴史的に民主主義の変遷を検証すると、民主主義ば豊かさをもたらす、のではなくて「豊かさが民主主義をもたらす」という現実に気づく。衣食住が保証されると人間は知識欲の充足を求めるようになり、表現の自由や言論の自由が認められ、それとともに民主主義は広がる(p201)年収100万円付近が、民主化が可能となる一つの目安である(p203)
・社会体制のマトリクスを、経済スタンス(横軸)、政治スタンス(縦軸)で分けると、分散経済・統制政治=社会主義、分散経済・放任政治=社会民主主義、集中経済・統制政治=ファシズム(全体主義)、集中経済、放任政治=自由主義(民主主義)となる。全体主義とは、政権が巨大企業と癒着し、極端な資本集中を認めながらも社会を政治的に統制していく制度である。社会民主主義は、富の偏りを許さず、富が民衆に行き渡るよう再分配を優先する制度である(p222)社会主義は生産材だけを共有するのに対して、共産主義は全ての財を共有する(p223)
・市場経済は、自由主義、民主主義、資本主義を生んだ。三者は市場経済という同一の母から生まれた兄妹で、切り離すことができない不可分の同一性を持ち、助け合い、支え合いながら機能する(p234)市場で自由に行動させうのが自由主義、社会主義にはそのような自由がない(p235)
・条件付き(政治的な実権を議会が握り君主の権限を制限する)で君主の存在を認める政治体制を、立憲君主制と呼ぶ、君主の存在を認めない共和性においては立憲民主制は成立しない。(p280)