・京都駅からJRで1時間半、奈良県の巻向駅のそばに、その証拠(3世紀には巨大な政治勢力があった)はあり、それは「箸墓(はしはか)古墳」である。長さ278、高さ30メートルの巨大な前方後円墳である。これは3世紀半ばに築かれたとされている(p29)
・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)は、長さ840、幅654、高さ36メートルで、古代の工法で造築した場合、一日2000人が働いて15年8ヶ月かかる計算である。当時の人口が数百万人だったことを考えると途方もない大規模事業である(p37)その地方で一番の有力者のみが大型の前方後円墳を築造でき、その下の地域代表は円墳の造営しか許されていなかった(p39)6世紀には古墳が作られなくなったのは、大和政権のパワーが弱まったのではなく、統治システムが整備されて、わざわざシンボリックな大型古墳を築造する必要がなくなったから(p43)
・670年に初の全国的戸籍が造られ、国民の管理をしやすくした。673年に即位した王子はそれまでの「大王」ではなく「天皇」を名乗り始めた(p50)
・日本の古代は、7世紀から8世紀を頂点として、列島が一つにまとまっていた時代、朝鮮半島有事(白村江の戦い等)を受け、日本は巨大な軍事国家になろうとしていた、そして中世は、一つになろうとした日本が再び崩れていく時代、近代は再び日本が誕生した時代、江戸時代がその準備期間、明治以降に本格的になった、その延長線上に現代人は生きている(p54)
・古代でも血統は大事だったが、社会制度の単位としては「氏」が重視された、氏とは共通の祖先を持つと信じる(同じ氏神を祀る)集団のこと、藤原氏の例がわかりやすいが、地位は父から長男に受け継がれるのではなく、その氏の中で出世競争で勝利した人に譲られた(p64)
・14世紀中ばから15世紀初頭は比較的気候が温暖な時代が続いた、1280年に595万人だった自能は、1450年には960万人にまで増加、縄文時代・古墳時代に次ぐ、第三の人口増加期である。15世紀前半にはシュペーラー極小期と呼ばれる太陽活動の低下が始まり世界的にミニ氷河期(1420以降)に日本も巻き込まれる(p72)
・1590年北条氏が滅び列島から戦場は消えてしまったので、同年に浪人停止れいが出され、村落から傭兵を追放することになった。彼らは、一つの行き先は、巨大公共事業の作業員である、大阪築城に始まる城と城下町の建設、干拓治水事業、もう一つは、朝鮮出兵である(p85)
・島原の乱を沈静化できたのはいいものの、島原・天草の地は荒れ果て、税収は激減した。幕府は、領民を殺しすぎると年貢を徴収できなくなり、藩の武士を食わせることができなくなる、これを契機に、江戸幕府は武力による武断政治から距離をおき、太平の世である江戸時代が訪れた(p88)
・昔の人は結婚が早くて子供を沢山産んだ、というイメージがあるかも知れないが、実は16世紀までの農村は、生涯結婚できない人が沢山いた。結婚とは、もっぱら家を継ぐ長男のものであり、直系長男でない場合は、結婚して世帯をもつ自由を与えられていないことも多かった、今でいう奴隷同然の人も多く存在した。しかし新田開発が進んだことで、長男以外でも独立した世帯を持つことが可能になった、すなわち結婚の自由がなかった農民も、配偶者を得て農家を営むことができ、多くの人が生涯に一度は結婚できる社会が実現した(p90)自分の田んぼを管理していれば、なんとか生きていける環境が整った、定住始めてから1万年以上、稲作始まって2600年が経過してのことである(p91)
・都市へ奉公に出た若者のうち、実に4割が奉公の終わる前に死んでいた(治安も悪いし、感染症も定期的に大流行)というデータもある、農村で増えすぎた人口が都市という「蟻地獄」に吸収された結果、日本の人口は均衡状態を保っていた(p105)
・明治維新時に3300万人だった人口は、大正元年の1912年で5000万人、1936年には7000万人、これに日本が支配していた朝鮮、台湾、樺太の人口を加えると、約1億人に達していた(p118)
・1926年に始まった昭和も、至極太平(平和)な時期が続く、電球・扇風機・アイロン・コタツといった家電が普及し、最先端の商品が並ぶデパートの出店も相次いだ、高島屋は「なんでも10銭均一売場」を設置して、デパート外に「高島屋10銭、20銭ストアをチェーン展開した、ピークは昭和8年(1933)であった。戦後しばらくは「昭和8年に返ろう」というフレーズが盛んであった(p128)
・社会保障の基盤も日本が戦争を遂行していく中で整備されたものである、陸軍の要請で1938年に厚生省が設立、国民健康保険制度、厚生年金制度が開始された。健康な兵士の量産を目指して整備されたものだった。戦争のために構築された制度が経済成長にとっても有利なのは納得できる。日本がラッキーだったのは、敗戦で経済後進国(アメリカなどの先進国で衰退した製造業の肩代わりをする世界の工場として活躍)になれたこと(p134)
・最も社会が劇的に変化するのは、人口動態が変わったり、世代交代が起こり旧世代の指導者が退陣した時である(p149)
・地球では過去5億年の間に大量絶滅が5回も起きている、どれほど繁栄した動物も、あっけなく滅びる可能性があり、人間も例外ではない。化石の記録から計算すると、種の平均寿命は約200万年だという。ホモサピエンスの誕生から約20万年だから、平均で考えれば人類の歴史はしばらく続きそうである、恐竜の一部が鳥類として進化したように、仮に大量絶滅が訪れても生き残る人々がいるかも知れない(p159)
・気候の変化によって食べ物が減った人類は、農耕というイノベーションを起こさざるを得なかった、農耕は中東で発祥し、それが世界各地へ広がっていったと考えられていたが、今では、各地で独立した形で農耕が生まれたという説が有力である(p166)
・藤原氏は7世紀半ばの国内改革で突如、歴史に登場し、その後1000年以上にわたって国政に関与し続ける一族である。645年の大化の改新で大活躍した「中臣鎌足」が死ぬ間際に「藤原」という名前を天皇から与えられ、鎌足の子供である「藤原不比等」がその後の藤原氏の礎を築いた(p194)
・1890年(明治23)には、神武天皇を祭神とする、樫原神宮が創建された。天孫降臨の地とされる「高千穂」、アマテラスを祀る「伊勢神宮」とともに、樫原神宮は聖地として人気観光地となった(p201)
・全国統一をした豊臣秀吉は列島中の農耕地調査をした、どれくらい税金(年貢)を徴収するのかを決定した・年貢というと苦しむ農民の姿ばかりが浮かぶが誤解もある。農民目線で考えると、土地を守りたいときに誰を頼ればいいかが明確になった。権力者が実質的な耕作者を把握できるようになり、中間利益は廃され、小農民の自立に一役買った。江戸幕府もこの政策を引き継ぎ、1643年には「農民たちが田畑を売買することを禁止」した、この理由は財力のある農民への土地の一極集中を防ぐ意味もあった(p214)
・1929年には48%の耕地が小作地であった、農家単位では3分の2が小作農か、自小作農であり、それだけ地主から土地を借りて農業をする人が多かった、この状態が改められるのは、敗戦後の農地改革である。国家が地主の土地を強制的に買い上げ、それを小作農に安価で売り渡した、これにより小作農地の割合は10%にまで下がった(p219)