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summary

新説の日本史 (SB新書)

新説の日本史 (SB新書)の写真

・漢字の訓読みというのは、漢字の意味を理解した上で同じ意味の和語を当てた、その和語の読みです(p30)

・平城太上天皇が、自らが移り住んだ平城京への遷都を宣言する(大同5年9月6日)そして9月10日、嵯峨が反撃に出る。逢坂の関・不破関・鈴鹿関という畿内東方の三箇所の関所を閉ざす、固関という措置を行った。7世紀から、大王家に内部対立があった時負けた方が東国に逃れて体制を立て直し攻め上がってくるのを防ぐという意識があった(p37)

・平城太上天皇の変で権力を行使する際の命令伝達経路が変わった、8世紀以前、桓武朝までは女官の担当で男は排除されていた、それが9世紀以降、嵯峨が蔵人所を設置したことで、男性貴族が担当して女官が排除される様になった、これにより天皇周辺で政治が議論され決定していくというスタイル=摂関政治を生み出した(p47)

・遣唐使は894年に停止されるが、政治的な判断だけでなく、経済や国際交流における民間の要素の活発化という時代背景があった、国家としての遣唐使派遣の必要性は低下した(p58)

・将軍などの貴人が名前の一字を家臣や下位のものに与えることを偏諱というが、上の字か下の字かによって違いがあった。上の字をもらった方が、下の字をもらうよりも将軍の覚えがめでたい上位者となる(p111)

・朝倉氏が足利義昭を推戴して上洛すると、もう一人の将軍候補である足利義栄及びその後ろ盾である三好氏と対立することになる、原稿の幕府体制に意を唱えることになることを懸念した。すると三好氏らとの全面戦争になり、応仁の乱の際限もある。織田信長はそれに関する知識もなかった(p114)

・関ヶ原の戦いは、江戸幕府を開いた徳川家康の栄光の記録と語られてきたが、最近の研究では、戦いの本質は豊臣政権内部での勢力争いであったということであると定説化している(p131)

・18世紀以降に人の住む場所が地理的にますます拡大し、文字通り空間的に江戸から大江戸になった、3つの変化として、1)人の住む地が地理的に拡大、2)江戸経済がいっそう伸長し上方資本に対抗できる様になった、3)上方文化に圧倒されていた江戸文化が18世紀後半になって追い越して江戸町人文化を開花させた(p152)

・士農工商とは、職や職能の違いを示す言葉である、武士・町人・百姓という区分はあるがこれは身分を示している。身分は武士(潘士)だが畑で農作業をしたり、家族で職人的な内職をしている武士がいる(p155)身分とは居住の形態、果たすべき「役」の対応関係にあり、それによって身分が決まる(p157)

・家を継ぐ長男の身分は確定しているが、次男・三男は、身分はその家の身分のままだが「厄介」と呼ばれる立場で過ごす。他家の養子に入ればその家と身分を継ぐことができる(p158)江戸中期以降、御家人株の売買が盛んになることで事実上、身分は流動的になるのですが、あくまでも「養子になる権利」を買うのであり、身分を買っているわけではなく、身分制度の建前は崩れていない(p158)

・関税自主権がないとはいえ、この段階では輸入税20%であった、これがなぜ不平等条約になっていくのか、これは5%に引き下げられ、外国から物品がどんどん入ってくることになったから(p191)この理由は、下関戦争の賠償金を幕府が払うことになるが、賠償金を3分の2に減免してもらう代わりに関税を差し出した(5%への引き下げを了承)(p192)

日英同盟で、モノ・カネ以外でメリットとして大きかったのが情報である、電信線の敷設が進んでいたが、世界の情報通信網(海底ケーブル)を握っていたイギリスと同盟を組んだことで、世界の新聞社・通信社が発信する情報を確実に入手できた、重要な情報をロシアに知られることなくアメリカやイギリスとやりとりできた(p213)

2021年5月15日読了