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一気に同時読み!世界史までわかる日本史 大活字版 (SB新書 大活字版)

一気に同時読み!世界史までわかる日本史 大活字版 (SB新書 大活字版)の写真

・縄文人によって占められた日本列島に新たな風が吹き始めたのは、紀元前1000年頃の弥生人の到来である。彼らの先祖は東南アジアからスンダランドへ向かわず北上して、シベリアのバイカル湖近辺で何世代も過ごし、寒冷地に適応できる体質になってから南下を始めた。そのうちのある人々は、朝鮮半島を縦断して、またある人々は中国大陸の山東半島、長江下流域から東へ向かい日本列島にやってきた、それが弥生人であると考えられる(p16)

・史上初めてメソポタミアの統一を果たしたアッカド王国は5代百余年に渡ってその版図を保ち、黒海と地中海に囲まれたアナトリア(小アジア)のヒッタイト王国は、製鉄技術の独占と戦車の有効活用で長く覇権を維持した(p17)

・中国の戦国時代で大国に数えられたのは、趙・魏・韓・斉・燕・楚・秦(戦国七雄)その中で勝ち残ったのは、秦王の政(せい)で天下統一を成し遂げた前221年に「皇帝」という称号を設けて、自らを秦の始皇帝と称した、ここで初めて、黄河文化圏と長江文化圏が統一された、始皇帝の後に動乱状態となったが、これを制したのが劉邦(高祖)が築いた漢王朝で、紀元8年から23年には王莽(おうもう)の新王朝という短命政権を挟み、それ以前と前漢、以降を後漢と呼ぶ(p26)

・魏は、263年に蜀(劉備は「漢」と称したが、魏は蜀と呼び続けた)を併合、265年には重臣・司馬懿の子、司馬炎が義弟(曹かん)から禅譲を受けて晋王朝を創設、280年に呉を滅ぼして天下統一を遂げた(p35)

・仏教誕生以前のヒンズー教をバラモン教、巻き返し後(土着信仰との融合、他の宗教の神々をヒンズー教の神々と同一視する)をヒンズー教と明確に区別する(p37)

・ローマ帝国では、キリスト教信者が前皇帝を神格化する慣例に従わない、戦いを否定するなどを理由に迫害を重ねてきたが、どんなに残酷な処刑をしてもキリスト教に改宗する者が後を立たず、信者は増える一方であった。多くの信者を持つキリスト教を迫害を続けることは、ローマ帝国の解体に繋がりかねなかったので、皇帝コンスタンティヌス1世は、形骸化した伝統信仰に代わる帝国の精神的支柱として、キリスト教を313年に公認(ミラノ勅令)した380年に国教化した(p44)

・6世紀前半の日本史には不明点が多い、第25代の武烈天皇には子がなかったので、第15代の応神天皇5世の孫とされる継体天皇が越前国(福井)から迎えられた(p45)

・587年には蘇我稲目の子・うま子が聖徳太子(厩戸皇子)などを味方につけて廃仏派の物部守屋を武力で滅ぼした、593年蘇我氏が推す推古天皇が即位した時には、仏教の受容に抵抗する者はなく、蘇我馬子により本格的な伽藍を備えた飛鳥寺が建造、聖徳太子も四天王寺、法隆寺を建立した(p46)

・フランク王国のクローヴィスはガリア(フランス、ベルギー、スイス、オランダ、ドイツの一部)全土の平定を進めて507年に成し遂げた、欧州の皇帝はビザンツ帝国(東ローマ帝国)であるが、527年ユスティニアヌス1世(皇帝)は、イベリア半島南東部、イタリア半島、シチリア島など、西ローマ帝国旧領のかなりの部分を奪回することに成功した。キリスト教の浸透に伴い、皇帝はキリスト教成立以前の異教の学問は不要とする考えに傾き、前4世紀にプラトンが創建して以来、化学の中心であったアカデメイアを529年に閉鎖した、当時の知的人材(哲学者、数学者、科学者など)を引き取ったのは、ササン朝ホスロー1世であり、イスラム王朝にも受け継げられた、ギリシア語・サンスクリット語で書かれた叡智をイランの文字に翻訳させた(p49)

・ローマ帝国の看板を掲げながら、ビザンツ帝国の中心部はギリシア文化圏にあり、住民の大半も日常的にはギリシア語を用いていた。こうした実情から、629年には帝国の公用語も、ラテン語からギリシア語に改めた(p61)

・752年に、マインツ大司教のボニファティウスが、ピピン三世に塗油の儀式を行い、フランクの王位が、メロヴィング家からカロリング家へと移行した。この3世の子が、現在のドイツ・フランス・ベネルクス3国・スイス・イタリア北部を合わせた広大な版図を築き、教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝として冠を授けられた、ドイツではカール大帝、フランスでは、シャルルマーニュと呼ばれる人物である(p80)

・奈良の大仏造立は、その表面に金鍍金が施されたが、このメッキは水銀アマルガム法で行われた、加熱して蒸発した水銀は有毒ガスになるので、作業員はもちろん多くの民衆が健康被害に見舞われた、当時は怨霊の仕業と理解されたので、794年に長岡京から平安京へ遷都された(p81)

・カール大帝の築いた西ローマ帝国(フランク・ローマ帝国)は、現在のEU の祖型と呼べる者であった、カールの死後には帝位と版図の大半は子・ルイに相続された。だが、ルイ死後の843年にはヴェルダン条約が締結され、ルイの長男・ロタールが帝位と中部フランクおよび北イタリア、次男ルードヴィヒ2世が東フランク、未子のカール2世が西フランクを領有することになった、長男ロタール死後の870年には、メルセン条約が締結され、中部フランクが次男と三男によって分割された、中部フランクはヴェルダン条約によってロタールの領土「ロタリンギア」と命名、フランス語ではロレーヌ、ドイツ語ではロートリンゲン、と呼ばれた、2つの条約により現在の、ドイツ・フランス・イタリアの原型ができあったが、帰属をめぐる争いと確執は20世紀まで尾を引いた(p87)962年から東フランクは神聖ローマ帝国と称した(p100)

・1086年に始まる白河上皇の院政は、天皇位を皇太子に譲っても上皇が政治の実験を握り続けた、これは摂関政治を行う藤原氏から政治の実験を奪い返すための秘策であった、そこで両者は備えのために武士を重用した(p94)

・モンゴルは二回の元寇の後も日本遠征計画を諦めず、1301年には薩摩甑島(こしきじま)に一艘の異国船が着岸、海上には200艘が漂うという事件もあった、大風が吹くと異国船は姿を消したが、幕府は再度の現行に備えて戦時体制を解くことができなかった、これが御家人達の不満を募らせて、討幕へ向かわせることになった。朝廷では、皇位継承に干渉する幕府への不満が高まり、後醍醐天皇は御家人達を糾合し討幕へと走らせていった(p111)

・後醍醐は天皇親政の建武の新政を開始したが尊氏が離反して、後醍醐と別系統の皇族を天皇に擁立したので二つの調停が並び立つ南北朝の乱世と突入した。1338年に尊氏は北朝の朝廷から征夷大将軍に任じられ、武家政権の室町幕府を開いた。内乱は三代将軍・義満に受け継がれた、南朝側は吉野を本拠に抵抗、後醍醐天皇の第六皇子・懐良親王を征西将軍として九州に向かわせた(p122)

・室町幕府は明の朝貢国の地位に甘んじようとも、貿易の利は捨てがたかった、日明貿易は、勘合という証票を所持する船に限り許された、皇帝の代替わりごとに100通の勘合が日本国王に発給され、未使用分は返納する決まりだったが、幕府は新旧の勘合を併せ、山名氏・細川氏・大内氏などの有力守護大名に切り売りすることで財政を補足した(p129)

・オランダはスペインとの80年戦争の最中、スペイン領内の全ての港への出入りが禁じられ、香辛料が入手できなくなった、なんとしてでも自分たちで現地まで赴くしかなくなり、アジア貿易への参入を決めた(p154)

・除親族のヌルハチは、内モンゴルの王侯からハンの称号を贈られ、大金(後金)を建国して、明王朝に対抗した。ヌルハチは1619年のサルフの戦いで大勝利を収めた。大金二代目のホンタイジも優れた指導者で、1635年には民族名を文殊菩薩に由来する、マンジュ(満洲)年、翌年には国号を「大清」と改め、中華の支配者になる野心を示した、1644年3月には明王朝は滅びた(p166)

・1688年の名誉革命で、ジェームズ2世の娘を夫とともにオランダから招き、彼女はメアリー2世、夫はウィリアム3世として即位した。イングランドはオランダと三次に及ぶ戦争があったが、過去を清算してオランダとは同君連合となった、1702年に解消されるが友好関係は持続した、1707年にはイングランドがスコットランドと合同して「グレイト・ブリテン」という連合王国を成立させた、後を継いだメアリ〜の妹のアンも子がいなかったので、ジェームズ1世から数えて四代目にあたるジョージ一1世がドイツのハノーバーから招かれた(p174)

・ナポレオンに欧州諸国の君主は次々に敗れて膝を屈し、ハプスブルク家も神聖ローマ皇帝の称号をやめて、単にオーストリア皇帝と称するようになった(p199)

・アメリカでは1808年に奴隷貿易禁止法が成立していたが、奴隷制度自体はその限りでなかった、新たな奴隷の供給は、男女の奴隷を結婚させることで賄っていた(p210)