・皇帝、つまりローマ皇帝という称号は、欧州では全ヨーロッパを統治する権限を象徴するものとされ、支配権の根拠となった。フランク王国のカールは王であったが、800年、教皇から「西ローマ皇帝」の冠を戴き、ローマ帝国の理念の継承者となった、フランク王国は三分割された後、962年に東フランク王国の国王オットーが皇帝称号を復活させ、以後、東フランク王が皇帝位を継承した(p21)ローマ教皇はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の国教たる「ギリシア正教」と対立する中で、強力な後盾を求めていた。カールの即位により、西欧世界をビザンツ帝国から独立させ、それと並ぶ政治的・宗教的な統一をみた(p23)
・ビザンツ帝国の東方教会では、聖職者の間で「聖像崇拝論争」が起きた、本来キリスト教は偶像崇拝が禁止されいたが、広く布教される過程で伝道の手段としてキリストやマリアの像が使われるようになった、726年にレオン3世は製造の禁止と破壊を命じる「聖像禁止令」を出し、聖像破壊運動(イコノクラスム)が始まった、これに製造を使っていたローマ教会が反発。これにより東西の教会の対立は深まり、1054年には、東のギリシア正教と西のローマ・カトリック教会が、互いに相手を破門する結果(和解は1965年)となった(p29)
・1453年にビザンツ帝国は滅亡、オスマン帝国が東地中海からバルカン半島、西アジアにまたがる大帝国を完成させたことで、欧州からアジアへの交易ルートが断たれた、これにより新航路の開発が必要となり大航海時代が始まる(p31)
・ロシアは、ビザンツ帝国皇帝の称号、ギリシア正教、キリル文字を得たことで、西欧社会に対抗可能な政治的・宗教的・文化的な地位を得た。モスクワは、第三のローマの地位を確立した(p32)カール大帝と共に成立した西欧世界の共通言語がラテン語であったのに対して、東ローマ帝国ではギリシア語が公用語であった(p33)
・帝国とは、広大な領土と多くの民族を支配する国家と考えるのが普通である(p46)王とは、一族の代表である(p58)皇帝は、1804年にナポレオン、フランツ1世(オーストリアが大公国から帝国になった)が皇帝になるまでは、ローマ皇帝の後継者としての称号であった、これにより古代ローマ以来の皇帝は消滅した(p59)
・アレクサンドロス王は後継者と呼べる者を明確に残さなかったので、アレクサンドロス帝国は、3分割(プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア)された(p54)
・15世紀以降、ハプスブルク家が世襲してきた「神聖ローマ帝国」は、1806年にナポレオンとの戦いを通じて消滅、しかしハプスブルク家は北イタリア、チェコスロバキアを含む領域を名称を、「オーストリア帝国」と改めて支配した。1866年普墺戦争に大敗した結果、ドイツ統一はオーストリアを排除して進められた、オーストリアは国家体制を改め、支配下にあったハンガリー王国と協調、オーストリア皇帝がハンガリー国王も兼任するという、二重帝国が成立した(p146)領域は、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア一部などを含み、1918年に650年にわたって中欧に君臨した帝国は崩壊、かつての領土の4分の3を失い、オーストリア共和国となった(p149)