・「武」とは、戦うものではなく、戈(ほこ)を止めるものである。信長 が言っていた天下布武とは「 私でもって戈をもう止めますよ」と言っている。信長の残した印章「天下布武」とは、 室町幕府の再興を 図りながら、天下=畿内全体をもう一度安らかな土地にすること、 それが 信長の「 天下布武」印の 狙いだったのではないかというのが 近年 よく言われている(p16)
・現在も 岐阜の駅前には、信長の金色の像が立っているが、 目上のたんこぶ だった 武田氏が消えてその解放された時の 信長を象徴するようである(p21)
・家康は5月29日に京都を出立している、 そしてこの日の午後に 信長が本能寺に入ってきた。 5月29日の次が6月1日になっているが、 この当時は和暦で小の月であり、 小の月は29日までしかない。 大の月は30日までで 、 4年に1回ある月が2回来る年がある(p24)
・家康は 京に7日間滞在した、 これは京都に留め置かれたのではないかと思われる。あまり早くに 堺に行くなという意味である、 当時の武将たちにとって 堺は世界の珍しいものが入ってくる 魅力のある街であった。その社会にせっかく行ったのになぜ2日間で切り上げてしまったのか これが不思議である(p42)
・信長は 日蓮宗に帰依していた本能寺も 日蓮宗である、 なぜ 日蓮宗 歌ったかという理由だが、もともと本能寺の大きな 檀家の一人に鉄砲が伝わった種子島の地主がいたようだ。 家康が宿泊したのは 妙国寺、 本能寺の変の時に長男の 信忠が止まったのは最初は妙覚寺である(p48)
・ 現在も 坂本城の後には明智光秀の石像が建っているが これは立派な石像である「 明智家 法」を読んでみると「 信長様にお引き立ていただき 過分のご恩をいただいた、一族 家臣は子孫に至るまで 信長が様へのご奉公忘れてはならない」と断言している、ものすごく忠節心を持った家臣であったことがわかる (p53)
・公家の山科言経が書いた「言経卿記」を見ると 信長はすぐに死んだ、信忠とは激しく争って死んだとある(p76)
・有名なフレーズ「 是非に及ばず」は、「とんでもないことだ、是も非もない、あってはならないことだ」ということを言っている、 信長の潔さや 覚悟を示した言葉ではない(p77)
・本能寺の変の当時 明智光秀は、丹波一国を苦難の末に手中に収め、 同時に丹後の国の 細川藤孝、 大和の国の 筒井順慶 などが光秀での与力として配属される、合計240万石 ほどの司令官となった、 織田家ナンバーワンの地位に上り詰めている(p93)