suu3.jp 戻る

summary

日本人が知らない! 世界史の原理

日本人が知らない! 世界史の原理の写真

・ヘブライ王国の住民は元々12支族からなっていた、王国が南北に分裂した時、10支族が北のイスラエル王国を建て、ユダ族とぺニヤミン族が南のユダ王国を建てた、北のイスラエル国はアッシリアに滅ぼされ住民は解散、南のユダ王国が生き残ったので「ユダヤ人」と呼ばれる(p19)

・ローマは帝国になる以前から公益を重視した、ローマに納税さえすれば、民族を問わず交易活動を自由にでき、商人たちはその身分や財産を保障された、東方のアレクサンドロス王やその後継者のギリシア人勢力はそのような寛容さを持たず、軍事力によってのみ征服活動を続けたので彼らの王国は長く続かなかった(p33)

・軍司令官から皇帝に上り詰めたカラカラは212年に勅令を発し「帝国の全自由民にローマ市民権を与える」と宣言した、イタリアも属州も全く台頭にした、その結果3世紀には、周辺各地で独立勢力が形成、遂には蛮族とされたゲルマン系の皇帝も出てきた。これ以降、軍人皇帝時代と呼ばれる動乱の時代となりローマ人の覇権は崩れる(p35)コンスタンティヌス帝が330年、首都ローマを捨て、ギリシアのビザンティウムへ遷都した時、名実ともにローマ人の覇権は失われた、この時、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)へと改称された(p37)

・地球温暖化により6−7世紀に欧州の農業生産力が増強されると、欧州はビザンツ帝国の食糧調達の物流に依存する必要がなくなる、ビザンツ帝国は高いコストをかけて広大な領土を維持する動機を失い、領土を縮小していく、新たに食糧調達の物流を握ったのは、ゲルマン人でした、そしてゲルマン諸部族は欧州各地で小王国を建国する、有力だったのかがフランク族で、496年にフランク族の王・クローヴィスはカトリックに改宗し、カール大帝が最終的に(732年、トゥール・ポアティエの戦い)西欧を統一した(p40)

・インドのヒンズー教徒の中で、上層階級のバラモン(僧侶、司祭)、クシャトリヤ(貴族)は10%、これにヴァイシャ(商人、金融業者)が続き、多数派がシュードラ(一般民)で60%程度、その下位に属しカースト外の階層が「ダリッド」が25%もいる(p58)

・インドでは19世紀まで、女性を生きたまま焼き殺す「サティー」というヒンズー教の儀式があった、死んだ夫の亡骸を約炎で、生きている妻を焼いた、それを拒否した女性は被差別階級の男たちにあてがわれた、イギリスの統治は長く残酷であったが、鉄道建設などのインフラ整備、サティー禁止などの弱者救済を行なっているのも事実である(p64)バラモン教を否定する宗教が現れ、バランモン教は、仏教とジャイナ教(紀元前5世紀に誕生)と対立した(p65)

・19世紀に流行ったドンでも学説に「アーリア人が文明を作った説」がある、ここでいう「アーリア人」は、インド・欧州語族のことだが、これを人種概念にすり替えて、北欧に誕生した金髪碧眼のアーリア人が、ギリシア・ローマからインドまでの様々な文明を作り上げたというファンタジーである、だいたい、ギリシア人・ローマ人は黒髪・黒目、金髪碧眼はローマ人から蛮族と呼ばれていた、ゲルマン人やスラブ人である(p68)

・日本国という国号の初出は、大宝元年(701)の大宝律令で、外交文書で用いる我が国の君主の称号は「明神御宇日本天皇・あきつかみ・あめのした・しろしめす・にほんのてんのう)であると規定された、日本の国号と天皇の称号がセットで定められた(p72)720年に完成した日本書紀の文中の「倭」は全て「日本」と書き直し、「ヤマト」と訓読みすべきことが指示されている、それまで「ヤマト」に「倭」の漢字を当てていたのを、「和」「大和」と改めたのもこの時代からである、703年において再開された遣唐使において、中華帝国の属国扱いされてきた倭国が独立を記念して「日本国と改名した(p73)

・人種と民族の違い、人種はDNAなどの遺伝子学的、生物学的な特徴によって導き出されたカテゴリー、それに対して、民族は言語・文化・慣習などの社会的な特徴によって導き出されたカテゴリーである(p74)日本の古代稲の遺伝子分析によっても、稲作は朝鮮半島を経由することなく、超高流域から直接日本に伝わったことがわかっている(p79)

・縄文後期に地球規模の寒冷化が始まり、大陸では食糧増産のため灌漑農業が始まりました、大規模な土木工事に人民を動員する必要から国家が出現する、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明、長江文明である(p77)紀元前2200年頃長江文明が洪水で衰退した時、黄河流域の勢力に征服されてしまう、こうして長江領域の漢民族化が進み、紀元前4世紀、秦によって征服され完全に漢民族のテリトリーに組み入れられることになる(p89)漢民族も常に異民族の侵略に晒されて多くの時代、異民族に従属した、漢民族が作った王朝は、秦・漢・晋・明の4つしかない(p90)

・日本人は伝統的に中国を「カラ」と読んでいた「カラ」は元々朝鮮半島南部の加羅地方(任那)のことですが、のちに中国大陸に拡大解釈された、遣唐使の時代以降は「唐」と書いて「カラ」と読ませ、中華風の揚げ物は「唐揚げ」傘は「カラ傘」と呼んだ(p98)

・9世紀、キエフ大公ウラディミルのところに、ビザンツ皇帝(東ローマ皇帝:ギリシアに都、ギリシア正教)から使いがきた、同時期にイスラム帝国(アッバース朝)からも使者がきていた、最終的にキリスト教を選んだが、大公は大酒飲みでイスラム教の禁酒の戒律に耐えられなかった(p102)

・ロシアがモンゴルの支配を受けていた時、モンゴルの先兵となってロシア人の反乱を鎮圧し、ハンの覚えめでたいロシア貴族が、モスクワ対抗である、イヴァン3世はロシア人勢力を統一し、ウクライナ人も取り込まれていく。モスクワ公はまた大公と名乗っていたので、モスクワ公国は一般的にモスクワ大公国と呼ばれる、ウクライナ人から見れば、キエフ公国の本流に対して、地方競力にしかすぎなかったモスクワ大公国には正統性がないということになる(p105)

・18世紀にポーランドは地図上から抹消された、この時ロシア領になったのが、ベルラーシとウクライナである。ウクライナには2つの地政学的価値がある、1)高層地帯、2)黒海への出口、クリミア半島にはクリム・ハン国が存続していた、18世紀に女帝エカチェリーナ2世が併合し、大量のロシア人を住まわせて、軍港・セヴァストーポリ建設、ドネツク丹田を開発した。ロシア人が多数派となったウクライナ東部(ルガンスク・ドネツク州など)とクリミア半島を、プーチンが併合することになる(p108)

・バイデン民主党政権のブリンケン国務長官、ヌーランド国務次官は、ボグロムでアメリカへ脱出したウクライナ・ユダヤ人の末裔である(p111)

・第二次世界大戦中、ドイツが侵攻し、ウクライナが独ソ戦の舞台となり、国土が焦土化した。ウクライナ人の死者は、兵士・民間人合わせて、800-1400万人の犠牲者を出した民族とされる、ウクライナ人の5人に1人が死んだ、日本が300万人、ドイツが500万人と比較しても、ウクライナの被害の大きさがわかる(p114)

・4世紀のゲルマン人の移動以降、ラテン人(ローマ人)ゲルマン人、スラブ人の3勢力の力が均衡し、互いに牽制しあいながら、バランスを取るという政治力学が優先されてきた、こうして西欧では、ラテン人の領域として、フランス、イタリア、ゲルマン人の領域としてドイツが区分化されていく。カール大帝の死後、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約を経て、国境線が確定され、西フランク王国(フランス)東フランク王国(ドイツ)イタリア王国の3国に分断されて、それぞれの国の基礎が作られる、ゲルマン人は言語までを支配するには至らず、ラテン語文化が残り、そこから派生してフランス語が形成され人口の大半もラテン人が占めた(p117)

・ポルトガル語で英国を指す「イングレス」が日本人には「イギリス」と聞こえたため、イングランドは日本ではイギリスと呼ばれた、イギリスは、アングル人(ドイツのアンゲルン半島)とサクソン人(ドイツのニーダーザクセン州)によって形成された、イングランドとは、アングル人の国のこと、イングリッシュとは、アングル人の言葉や人々を表す(p123、124)フランスのブルターニュ島をリトルブリテン、イギリスをグレートブリテンと読んで区別した(p154)

・カール大帝がすでに滅んだ西ローマ帝国を復活させるべく800年に西ローマ帝国の皇帝の座に就く、476-800年までの324年間空白だった西ローマ帝国皇位をカールが復活させた、西ローマ皇帝はカールからオットー1世へ引き継がれ、ドイツ王で962年、神聖ローマ帝国を樹立した、西ローマ帝国(395)→カール帝国(800)→神聖ローマ帝国(962)と推移し、三つ目の西ローマ帝国に当たる、東ローマ帝国は、1453年に滅んだのち、1480年モスクワ大公国→1613年ロシア・ロマノフ朝となる(p127)

・ドイツにおいて、962年発足の神聖ローマ帝国は第一帝国、1871年発足の発足のホーエンツォレルン家(ハプスブルク家に対抗)のドイツ帝国が第二帝国、ヒトラーのナチス・ドイツが第三帝国となる(p129)欧州人は自らの歴史がローマ帝国から始まるものと考えている、西ローマ帝国の継承者が神聖ローマ帝国の歴代皇帝、この流れにオーストリアのハプスブルク家と、ドイツのホーエンツォレルン家がある、東ローマ帝国の後継者はロシアのロマノフ家である(p130)

・十字架上で殉教したイエスを崇拝するキリスト教徒は、ヤハウェ神が聖霊となって聖母マリアに宿り、イエスとなって生まれたという理論(三位一体説)を作り出した、これはヤハウェ一神教との整合性を保つための苦肉の策である(p141)日本の仏教指導者は、神道を排斥するのではなく、日本の神々を仏教の教義で再解釈した、日本の神々は仏が姿を変えたものである、仏に至る途中の存在であるとか、仏を守護する存在であると解釈した。これが神仏習合、皇室の祖先神である太陽神アマテラスは大日如来の化身、比叡山の神おおやまくいは、山王権現として延暦寺で祀られた(p145)

・スペイン、ポルトガルによる新大陸アメリカの征服が進み大量の銀河欧州へ流れ込み長期にわたるインフレ(価格加盟)が起きる、大量の資金が航海に投資されて貿易を活性化させた一方、西欧における銀の価値を暴落させ銀貨で地代を徴収していた貴族階級が没落する、国王は大商人を保護して儲けさせそこから徴税する重商主義政策を採用した、こうして得た資金力を背景に、官僚と傭兵をはとい、地方の貴族を圧倒した、これが絶対主義である、フランスのブルボン家、オーストリアのハプスブルク家が栄華を極め没落した貴族は国王の大臣として給料を支給される廷臣に成り下がった(p185)

・近代徴兵制(従軍の義務)を始めたのはフランス革命政府であり、これは参政権の付与と裏腹だった、女性には兵役を免除したため、参政権も与えなかった、国家の名誉のために戦う兵士は、カネのために戦う各国の傭兵隊を圧倒した、戦没者の遺族や戦傷者には政府が年金を支給し生活を保障した、戦没者は国立墓地に葬りその栄誉を国家が顕彰する(p192)

・身分制の撤廃、廃藩置県、徴兵制の実施、憲法の制定というフランス革命級の国家改造を成し遂げた明治維新ですが、戊辰戦争と西南戦争まで含めて3万人程度の犠牲者で抑えられた。これが数十万を殺戮したフランス革命との大きな違いで世界史の奇跡でもある、江戸幕府も明治政府も権威の源泉は同じ「天皇」であったから、天皇が統治し続けるという点で日本には革命は起こっていない(p193)

・下関条約で台湾は日本の領土となった、台湾人はこれを日本による侵略というより、清の圧政からの解放として下関条約を高く評価し、自国の歴史の始まりの重要な一歩と位置付けている。下関市・春帆楼に日清講和記念館が下関条約を記念して1937年に建てられた(p204)

・宋、元王朝時代、中国商人は積極的に外洋進出し、造船技術を向上させた、羅針盤・天体観測などの航海術も、鄭和の「南海遠征」を可能にした、鄭和の艦隊には多くの兵士が同乗し、現地勢力と交戦することもあった(p213)

・イギリスのジョージ3世は特使マカートニーを韓隆帝に派遣して、貿易不均衡の是正を訴えた。これに対して「天朝の物産は豊かでないものはなく、外国製品で不足を補う必要はない、天朝の産する茶・磁器・生糸は英国の必需品であるから、恩恵を与え天朝の余沢荷に潤う(おこぼれにあずかる)ことを認めている」と回答し貿易交渉が決裂し、イギリスが始めたのがインド産アヘンの中国への密輸であった、これが清朝に発覚しアヘンを没収されたことを口実に「貿易の自由を守る」という理由でイギリス海軍が清国を攻撃(アヘン戦争)した(p221)

・実戦で初めて大砲を使用したのは、百年戦争でフランスに攻め込んだイギリス軍である、初戦のクレシーの戦い(1346)で大音響でフランスの騎兵隊を蹴散らし、同年のカレー攻略戦で攻城兵器として使用された。これにより火砲の前では騎兵の突撃がいかに無力かを西欧諸国は思い知った、欧州では鉄砲の登場、銃の実用化、大砲の小型化が進んだ(p224)コンスタンティノープル(1543)チャルディラーン(1514)・バーニーバット(1526)・長篠の戦い(1575)の四つの戦いは、火砲の圧倒的強さを証明し、騎兵の時代が終わったことを象徴するものである(p227)

・大坂冬の陣では、家康は大阪城を20万の大軍で包囲、豊臣方のカノン砲の射程外に本陣を置いた、そこにオランダ・イギリスから購入した最新鋭の大砲が到着した、特にイギリスのカルバリン砲は射程距離6キロ、豊臣軍の手の届かぬ遠方から射撃を開始、やがて天守閣を貫き、淀君に仕える次女たちが犠牲になった、カルバリン砲は、スペインの無敵艦隊アルマダに勝った時も用いている(p231)大坂の陣、島原の乱(オランダはバタヴィアから軍艦1隻を派遣、洋上から原城を艦砲射撃)、オランダは二度にわたって徳川家を助けたので、徳川家はオランダに長崎における対日貿易の独占権を与えた(p232)

・名誉革命の後、イギリス議会はオランダの支援を得て、国王ジェームズ2世を追放し、オランダ総督夫妻をイギリス王に迎える、オランダ総督夫人はジェームズ2世の娘だったので血統的に問題なかった、戦わずに行われた(ジェームズ2世はフランスへ逃亡)ので、名誉革命となり、今日に至るまで300年以上続く最も安定した政治形態となる(p244)革命の語源は回転する、伝統に戻した、という意味で、名誉革命はまさしく「保守革命」と呼ぶべきもの(p244)

・覇権国家はイマニュエル氏によれば、1)圧倒的な生産力、2)圧倒的な流通力、3)圧倒的な金融力、の3つの条件を持つ、そのような国家は、オランダ・イギリス・アメリカの3つだけである(p248)さらに、圧倒的な詐術力、圧倒的な強奪力も必要かもしれない(p252)

・イギリスを覇権国家に押し上げた主要な原因は産業革命による生産力拡大ではない、その原因は他国が真似できない独自の収益構造である、それは、工業製品の輸出で収益を得る産業資本の段階から、資本輸出(海外投資)でリターンを得る金融資本の団塊に進んだこと(はp251)

・黒人奴隷貿易は中世のムスリム商人が始めた、これを模倣したのがポルトガル、規模を拡大したのがイギリスであった、イギリスは、スペインやフランスという競合者と戦争をし、勝利することで奴隷貿易を独占し莫大な利益を上げた。奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを得た、イギリスにとっては極めて有望な高収益事業であった(p253)

・奴隷貿易は19世紀まで続いた、この間、イギリスはインドで植民地化を進めてインド産の原綿を収奪、ポルトガル領ブラジルでは砂糖の生産量が向上し、価格が下がる一方で奴隷貿易は利益が出なくなり自然消滅した。奴隷貿易がなくなったのは、人道的な理由というよりは、経済的な理由が大きい(p255)

・イギリスの覇権は、奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラック・ディーラによって形成されたもので、その犯罪的かつ反社会的な手法無くして持続可能なものではなかった。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明している(p259)

・イギリスはアヘン戦争で勝利し、清王朝の関税自主権を奪い巨大な中国市場に自国の綿製品を輸出して一儲けしようとしたが、割高なイギリス面製品は中国では売れずアテが外れた、実態は中国人が手で塗ったシャツの方が安かったということ、インドでもこれが当てはまった、日本は労働コストは中国よりも高く、明治維新後は一気に機械化が進んだ(p277)

・東南アジアの植民地に黒人奴隷制度が導入される必要がなかったのは、中国の過剰人口(クーリー)が海外へ流出したから、英領マレー、シンガポール、オランダ領インド(インドネシア)、米国フィリピン、ハワイ王国(p277)

・日本にとって不幸だったのは、世界恐慌期に4期連続でアメリカ大統領に民主党のフランクリン・ルーズベルトがなったこと、遠い親戚のセオドア・ルーズベルトは、親日家出会ったのに対し、フランクリンは全くダメであった。人種差別主義者であった(p331)

・1)モンゴル帝国による侵略は、日本も朝鮮も中国もロシアもイスラム世界も経験した、2)大航海時代には、大砲で武装した西欧艦隊が、アフリカとアジアの沿岸を襲い、中南米にも襲来した、種子島へのポルトガル人来航はその一環であった、3)19世紀、産業革命で強大化した西欧列強による世界分割もアジア、アフリカ諸国が皆経験し、ペリー来航はその一環であった、危機の時代において我々の祖先がいかに対応し、死に物狂いで独立を守ってきたか、諸外国との比較の中でそれを知れば、あなたの足からの生き方も変わってくるだろう(p367)