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summary

桶狭間の戦い 戦史ドキュメント (学研M文庫)

桶狭間の戦い 戦史ドキュメント  (学研M文庫)の写真

・今川家の先鋒である井伊直盛は、家臣団の中では新参の外様の位置づけで、桶狭間の戦いでは忠誠度が試されていた、直盛の養子、直親の子孫に、徳川四天王の一人の井伊直政、大老の井伊直弼がいる(p11)

・桶狭間の戦い当時の勢力は、織田が尾張を3分の2を支配していたとして、約38万石、今川は駿河・遠江・三河と尾張の残りで、89万石となる。(p25)

・今川軍の動員兵力は1万石=250人とすると、2万5千人程度となるが、武士(侍)は2000程度であり、残りは農民兵である(p25)

・戦国期の主従制の基本は、「誰についているのが一番安全か」である、今川義元が織田信長に討たれたことは家臣団に与える影響は大きい(p77)

・松平元康は、丸根砦を落とした後に義元本体への合流を命ぜられることなく大高城に入った、これが運のつき始めである(p112)

・籠城が成功するためには、後詰の兵が期待できて、攻城軍の外側にさらに取り巻いて挟み撃ちができることが条件(p129)

・織田信長に付き添った兵:3000は、即戦闘部隊であったことが重要(p140)

・簗田政綱は5つの班(本陣の行動把握・報告班、指揮班に連絡する伝令班、敵斥候を捕殺する保全班、本陣へ案内する誘導班)を率いていた(p153)

・中島砦を出た信長軍は、今川軍と小競り合いを続けながら進んでいた、この情報が伝わらなかったのは、簗田が指揮する班の活躍(保全班等の働き)が大きい(p158)

・清洲は交通の要衝ではあったが、名古屋城の完成とともに廃城となり、清洲の城下町は瞬く間に寂れていった(p165)

・桶狭間で義元が討たれた1日前には、今川軍の先鋒が布陣していた、このことから昼食時にたまたま通りかかったので陣を張ったわけではなく予定の行動と考えられる(p181)

・戦国時代の習慣として、僧侶が手土産(酒、肴など)を献上することで、寺社境内での今川軍の陣取(竹木伐採)の禁止が確認された(p188)

・信長公記の記述を信用すると、今川本陣へは、迂回奇襲ではなく、正面攻撃しかも攻め上がったことになる(p195)

・桶狭間の戦いにおいて、かなりの数の名のある武将がふみとどまって、忠死したことは事実である(p207)

・総大将の義元の周りには副将格(朝比奈泰朝、岡部元信ら)がいなかったため、全軍へ指揮することができなかった(p208)

・義元愛用の刀(左文字)は、三好宗三→武田信虎→今川義元→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→徳川将軍家、のように伝わった(p214)

・今川方の総死者は3000余りと言われている、武士:583、雑兵:2500程度である(p216)

・松平元康は、岡部元信から遣わされた浅井六之助を先頭にたてることで、残党狩りからの襲撃を逃れることができた(p229)

・元康が今川氏から保護国から脱却できたのは、織田信長との同盟が大きい(p235)

・桶狭間の戦いから6年後(1566年)に、松平から徳川へ改姓して、名実ともに三河一国を支配する戦国大名になった(236)

・織田信長は、桶狭間の戦いからわずか7年で111万石もの大名になった(p239)

・義元の息子の氏真は、1566年の灌漑用水の整備、楽市制作、1568年の徳政等、領国経営では素晴らしい業績を残している(p241)

・今川家は衰退していったが、信玄が「甲相駿三国同盟」を破棄する1567年(永禄10年)までは、家康は遠江には力を及ぼせなかった(p244)

・最終的には、氏真は家康から近江に500石を与えられた、子孫は高家となり存続した(p248)