・豊臣秀吉は東洋のナポレオンというべき業績がある、1)朝廷の権威の回復、これが現代に到るまでの独立と統一を維持する力となっている、2)国土デザイン、全国の県庁所在地のうち半数以上が関ヶ原前後に豊臣系大名によって創建、改造された(p13)
・信長が欲したのは鎌倉幕府における北条氏のような地位、北条氏と同じ平氏を主張していて当然の発想(p16)
・信長がモデルとしたのは、関東公方のような形であり、足利義昭がこれを認めてれば問題なかったが、義昭は管領より上の地位を臣下に与えることは将軍として許せなかった(p17)
・清洲会議の結論は、家督は三法師丸が継いで、社長は空席、次男の信雄と三男の信孝が最高顧問、運営は重役たちの集団指導体制というもの(p23)
・織田家の序列は、信忠、信雄の次は信長の弟の信包で、信孝はその次だったが、信雄の行動が鈍かったのと、信孝が山崎の戦いに参加していてややこしくなった(p24)
・家康がなぜ秀吉と戦ったかは、本能寺の変後に横領した信濃と甲斐を返したくなかったから、武田氏滅亡時に、家康は駿府を、信長は信濃、甲斐、上野西部を得た(p27)
・秀吉が家康に譲歩したのは、当時の最大の関心は貿易の独占と海外進出であったから(p28)
・西軍は2位の毛利と3位の上杉の連合であったが、両者ともにすべてを賭けた戦いを避けた(p40)
・戊辰戦争において、中央の情報を正しくつかんで官軍側に立った秋田、新庄は官軍到着前に庄内藩に攻撃されて大損害、新発田や三春のように最初は列藩同盟に付き合って後に寝返ると被害は少なかった(p42)
・室町時代から戦国にかけては、関東は準独立国であり、足利直系の関東公方(後に徳川家康が後継)やお目付け役である関東管領としての上杉家があった(p53)
・伏見城が廃城になった後には、江戸は事実上の首都になり1634年以降には将軍は京に上らなくなった、これが崩れるのは家茂が上洛して大坂城で征長戦争の指揮をとってから、これ以降は江戸城は私的な居城でしかなくなった(p58)
・丹羽長秀が坂本城で三法師丸を預かった後、9歳で元服して従四位侍従となった、前田、毛利、上杉と同格、12歳で岐阜城主(13万石)となり従三位中納言に昇進、秀忠と同じ昇進ぶり(p118)
・秀信が西軍についたので、美濃の諸大名の多くが追従して西軍に参加した、初陣である関ヶ原で負けて高野山へ追放となった(p119)
・源頼朝によって九州を3カ国ずつ3人の守護(少弐、大友、島津)がおかれて、初めは鎌倉から代理を派遣していたが、元寇を機に土着した(p163)
・全国の戦国大名のほとんどは、信長・秀吉・家康によって移動があったが、最果ての地というべき北東北と長崎県では生存率が高かった(p178)
・太閤検地とは、中央政府の手で検地をして、ヤミ給与を摘発して土豪達の知行地を減らして、手数料を蔵入地として上納させる仕組みであった、中央政府と地方政府の統治力を上げる優れものであった(p186)
・琉球において徳川幕府が創った関係は、ほぼ、慶長の役で朝鮮について秀吉が目指したものと同じ(p193)
・豊臣家は滅亡まで徳川家と天下人や畿内の盟主としての役割を分担していた、家康・秀忠・家光の将軍宣下は伏見城で行われている、家康の駿府移住後には、伏見城は徳川家の畿内における居城となり、政権所在地としての江戸城、西日本拠点としての大坂城、京都での居城としての二条城に機能分化した(p232)
・安土城は本能寺の変の後に三法師丸の居城として使われたことがある、廃城になったのは、信雄が秀吉に臣従して三法師丸が坂本城の丹羽長秀のもとで養育されるようになってから(p253)
・江戸時代が環境先進国というのはウソで、山林が荒廃して明治になってから緑豊かになった、リサイクルが盛んだったのは貧しく交通インフラが貧弱だったから(p271)
2010/09/20作成