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誰もが書かなかった日本の戦争 日清・日露・太平洋戦争を知らない子供と大人のために

誰もが書かなかった日本の戦争 日清・日露・太平洋戦争を知らない子供と大人のためにの写真

・太平洋戦争が始まった当時のアジアは、日本とタイを除く国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地であった(p23)

・戦前の小学校の教育では、5年生以上に「修身」や地理、歴史という科目がなかった(p33)

・日露戦争に勝って(日本が白人の大国に勝利)から、インド、ベトナム、ビルマ、アフガニスタン、フィリピンから独立運動をやっている人たちが日本にやってきた(p41)

・農家の生まれで首相まで上り詰めた「伊藤博文」は、豊臣秀吉以来の出来事、次の時代では「田中角栄」(p61)

・中国で起きた義和団は、キリスト教を敵とすることで人々の意識を高めた、同様に、韓国の東学党はそうであり、これが日清戦争の引き金となった(p68)

・伊藤博文(若い世代)が日英同盟を結ぼうとしていた時に、古い世代は、日露を強化しようとしていた(p75)

・英国はアフリカでのオランダが作った共和国(オレンジ、トランスバール)を征服するのに兵力を取られたので、北清事変に兵力が割けずに、日本に大量の派兵をもとめた、その結果が日英同盟締結にもつながる(p77)

・日露戦争を始める前、人口比較で3分の1、鋼生産ではロシア:150万トンに対して、数万トン、陸軍がロシア:350万人に対して、38人、海軍軍艦はロシア:80万トンに対して、26万トンであり国力差は激しかった(p87)

・日本のロシアへの宣戦布告は、1904年2月10日であったが、前日にロシア艦隊を攻撃して2隻を撃沈している、これは日清戦争、太平洋戦争も同様(p90)

・2回目の日英同盟により、2か国以上と戦争した場合に参戦するという内容が、1か国に変更された、これで日露戦争を有利に展開できた(p101)

・帝国主義と植民地政策が否定されることになったのは、第一次大戦が終わった1918年(大正7年)で、日韓併合の8年後に実現された(p107)

・アメリカが提唱した「自主独立」とは、すでに列強が持っている植民地はそのまま維持できるが、新たな植民地をつくることを禁ずる内容であり、この点を近衛文麿(5摂家で天皇につぐ名門)は指摘した(p117)

・ベルサイユ条約、9か国条約でも、「すでに持っている植民地は認めて、新たに権益を手にすることは侵略として禁じている」ことで一致している(p121)

・日本政府がつくった満州国の国旗は、赤:日本人、青:朝鮮人、白:満州人、黒:モンゴル人、黄色:中国人を表すと教えられた(p134)

・満州事変から太平洋戦争が終わるまで日本は軍部独裁政権だったように見えるが、敗戦までの日本の軍人には選挙権がいっさいなかった(p136)

・犬養毅が515事件で暗殺された後任として、軍人(斉藤元海軍大将)が首相となり、明治以来続いた政党政治は終わった、これ以降敗戦まで政党内閣が復活することはなかった(p143)

・リットン調査団の報告書の結論は、「満州は形式的には国際連盟が管理し、そのもとで日本が仕切っている現状を認める」というもので、政府やマスコミ予想とは起きく反していて歓迎されるものであった(p145)

・イギリスは日英共同で1千万ポンドの借款をしようと提案した、これに応じれば英国は事実上満州国を承認しようとする条件であった、これは関東軍を中心に反対された(p151)

・蒋介石は、それまでの自分の考え方を捨てて、国民党と共産党の合作で日本との戦いに専念することを約束した(p166)

・太平洋戦争前の日米比較は、日本海軍が84万トンに対して、アメリカは300万トン、飛行機は日本:2300に対して、1万5000であった、石油の自給率は10%で残りはほとんどをアメリカから輸入(p194)

・当時アメリカが日米平和交渉に本気だったのは、ヒトラーがソ連を打ちのめして、アメリカが日独両国と戦うのを避けたかったから(p245)

・東条英機は現役軍人として明治政府開設以来、初めて首相になった(p261)

・日米開戦の12月8日に、ヒトラーはモスクワ攻撃をあきらめ、ドイツ敗北が明らかになった、日本はドイツ軍がソ連にもイギリスにも勝つことを前提にしていたが、それが開戦日に崩れた(p280)