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漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書)

漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか? (光文社新書)の写真

・アルファベットでしか書けない西洋語は、文字が発音の変化を忠実に反映しすぎて、綴りが100年単位で変動してしまうため、千年も経つと外国語になる(p12)

・日本国内でも、外国人社長と重役は純正英語を、中間管理職はカタカナ英語、平社員は日本語を、という三層構造が見られる。近代以前の日本も、上流知識階級は純正文語、中流実務階級は、口語風にくずした変体文語、下層階級は文盲であった(p13)

・高位言語は、東アジアでは漢文、西欧ではラテン語、インドでは梵語、中東ではアラビア語、チベットからモンゴルにかけては、古典チベット語が、高位言語の地位を占めていた(p13)

・封建時代の日本は、公家・寺家・学者は、純正漢文の読み書きができた、中流実務階級の武家や百姓町人上層は、変体漢文を交えた文体「候文」、下層階級は、無筆(文盲)であった(p13)

・国民国家とは、国民・国語・国軍の三点セットからなる近代国家という(p15)

・東アジアで、日本がいちはやく近代化に成功した主因は、中流実務階級が、江戸時代に漢文の素養を身に着けたことになる(p16)

・北朝鮮、ベトナムは漢字を全廃、全廃予定していたのは、中国、極端に制限したのは韓国、簡略化して使ったのは日本、無制限に使っているのは、台湾・香港(p17)

・古代文明は、集約農業・都市・金属器・文字、の4点セットから成る(p30)

・表意文字である漢字には、よいイメージを持つ好字、悪いイメージを持つ卑字、がある(p39)

・和語では、言(こと)と、事(こと)を区別せず、すげての言葉には霊力があり、ある言葉を口にすると、実際にそういう事件が起きる、と信じられていた(p43)

・今では、大仙古墳の被葬者は不明で、少なくとも仁徳天皇でないと定説化されている、埴輪や須恵器の形式に着目して建造年代を推定した結果と、古事記・日本書紀が伝える歴代天皇の順番が合わないので(p47)

・608年の遣隋使(小野妹子を大使)において、天皇という称号を初めて使用した。天子とか、皇帝という言葉を使うと門前払いになると思い、変則的な称号を考えたのだろう、倭国王は中国の皇帝の臣下ではにない、というメッセージを婉曲的に示すための苦肉の策(p76)

・漢字文化圏の中で、漢文を訓読するのは、日本だけ。中国人は、現代中国語の漢字音で漢文を読む。韓国人もベトナム人も同様(p78)

・訓点により、日本人はほんらい外国語である漢文を、自国語の古典として読めるようになった、これは画期的な発明である(p86)

・飛鳥時代の日本は、外圧と、お雇い外国人、という二つの点で明治に似ていた。日本の大学の教員はお雇い外国人ばかりで、講義も西洋語で行われた。日本語で授業が行われるようになったのは、明治の後期から(p90)

・645年の「大化」という元号制定は、日本文明は中国文明(当時は唐)と対等の独立した文明である、という、独立宣言の意味合いがあった。現在も元号制度を維持しているのは世界で日本のみ(p93、94)

・新羅は日本よりも百年早く(536)独自の元号を使ったが、唐から詰問されて650年から唐の元号に従っている。それを廃止して独自の元号を使ったのは、日清戦争後の「大韓帝国」(1897-1910)である(p93)

・日本は、訓読みでは「ひのもと」「やまと」など読まれた、音読みでは、二ホン、ないし、ニッポン。中世において、呉音では、ニチホン、漢音で、ジツホン、と読まれたこともあった(p94)

・藤原京は、現在の橿原市にあり、中国の都城を模倣した、我が国最初の計画都市、面積は最近の調査では、平城京や平安京をしのぐ可能性がある(p101)

・藤原京の失敗は、漢文古典の理念を額面通り受け取って、王宮を中央に作ってしまい、大雨時には道路の測溝からあふれた汚水が王宮に流れ込む不都合があった(p102)

・702年の遣唐使では、改めて「日本」という新国号を伝えた、意外にも、中国側はすんなりと了承した。当時の最高権力者は、武則天(則天武后)でありk、中国史上唯一の女帝となった彼女は、破天荒で新奇なことを好んだためか(p107)

・元明天皇は在位8年であるが、後世に影響を与えた事業が数多く行われた。708年、和同開珎を鋳造、710年平城京に遷都、712年古事記(和化漢文)完成、713年全国の国名表記を、好字の二文字に改める。(p108)

・フン、カン、オン、を発音する場合、子音で止めずに、「母音イ」を添えて、フニ、カニ、オニ、と発音された。されに、フニ、と、カニは、音転して、フミ、カミと読むようになった。(p135)

・呉音は、5世紀から6世紀に日本に流入した漢字音を、日本語風になまったもの。ところが7世紀に唐が起きると、唐の都の長安(現在の西安)は、発音が異なり、日本で漢音と呼ばれた(p136)

・日本では、呉音・漢音のほかに、一部の漢字については、鎌倉室町時代の中国語音を反映した「唐宋音」や、日本人の誤解に基づく「慣用音」がある。行商(ぎょうしょう)は、呉音、旅行(りょこう)は、漢音、行脚(あんぎゃ)は、唐宋音(p139)

・最後の遣唐使(804)には、最澄・空海・橘逸勢(はやなり)が、渡唐した(p143)

・日本では個人の学才による競争主義より、血筋による序列を重んじる気風が強かった。低い身分で学才のあるものが出世するには、僧侶になるという道があり、科挙は日本に根付かなかった(p146)

・江戸末期には、下級武士のみならず、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ(p207)

・明治の頃は、学生・役人・軍人・新聞記者は、漢文訓読調の文体を書いていたが、大正時代になると、言文一致の口語体に変わるようになった(p217)

・昭和天皇があげた、戦争の敗因として、1)兵法の研究が不十分、2)科学力より、精神力を重視した、3)陸海軍の不一致、4)常識ある大物政治家がいなかった(p222)